―7月13日
午前3時半、連合軍の先頭が前進を開始する。同4時半、西南門西方の土塀上とその付近に展開する英の火砲が天津城を射撃する。連合軍が西機器局に迫ると、同局の清兵は逃走してしまう。軍の一部を以って同局と西方村落を占領させた。砲兵陣地を海光門東南の土塀外濠付近に設け、同5時に目標を天津城南門として射撃開始、土塀上の英砲も同所に射撃し、砲火を集中して浴びせた。歩兵が逐次展開する。その隊形は凸形で、先頭中央が日本、後方は左翼が英と米の一部、中央が仏、右翼が米である。右翼が展開した場所はその辺りで最も開豁していたので、米から比較的多くの死傷者が出ていた。
国立国会図書館デジタルコレクション
「北清事変写真帖」(柴田常吉, 深谷駒吉 撮影)
清兵は、天津城の壁上と南門の左右の銃眼口、本道上とその左右に設けられた塹壕から激しく射撃した。時間の経過とともに連合軍の死傷者も徐々に増えていった。
同7時ごろ、清兵の大部隊が天津城の西門を出て遠く西方に退却する。
「午前七時の頃日仏両陸軍兵海光門より城に向って突進するを見る。同七時半の頃両陸軍の吶喊に助成すべき命を受け……」
これは、海軍陸戦隊第2中隊長山下義章大尉の戦闘報告である。日仏は清兵の退却を見て突撃と判断する。ただ海光門から南門に通じる本道の東側は水はけの悪いぬかるみで、その中央付近には溜池があった。西側は幅10メートルほどの渡渉困難な水道となっている。そのため日本軍は縦隊のまま本道上を突進し、これに仏兵が続いた。本道上には200~300メートル毎に家屋があり、それを利用して躍進したが、暴露する距離が長いために清兵の集中射撃を浴びて死傷者がでる。
福島少将ら司令部は第1線の後方を前進し、本道上最初の家屋にいた。その司令部要員の中にあの青木中佐もいた。清兵の猛射撃下、青木中佐が敵情確認のため門辺の所まででると、左肩にビリビリッと衝撃を感じる。
「ハテな、オイ一寸見て呉れい如何も此処を撃られた様であるが」
「アア撃られましたな、然れども極めて軽傷です」
常備艦隊参謀長の報告に、「我陸軍負傷者の内に青木中佐あり尤も軽傷にて司令部に於て健気に事務を取り居れり」とあり、幕僚活動には特に支障がなかったようだ。
先の山下大尉は中隊を躍進させて海光門から約200メートルの所にある焼失した家屋の陰で一時隊を止める。前方を確認してさらに前方200メートルあまりにある民家に隊を駆け足で進めた。そこには福島少将ら司令部要員がいて戦況を確認していた。山下中隊がその場所に到着した後に清兵の射撃が集中しだしたことから、山下大尉は司令官に害を及ぼしてはいけないと考えてすぐに中隊を200メートルあまり前方の民家へ進める。
「戦況を見るに敵の射撃は益盛にして我連合軍の負傷者続々其数を増やすを見る……此処より城壁まで凡そ七百米突許」
清兵は東500メートルの瓦壁に造られた銃眼口から連合軍の右側方を射撃し、西600メートルの寺院の堤防上から連合軍の左側方を射撃した。山下中隊の場所から前方100メートルあまりに民家があって、そこに日仏の部隊が蝟集していた。
「兵数多きを以て遮蔽の充分ならざる為めか、時々負傷者を生ぜしを見たり。故に是より前進するも徒に負傷者を増やすのみにして且つ敵兵は能く身を隠して射撃せるを以て進むも之に射撃を加うること能わず」
前進しようとしても、前方は溜池で進むのは困難であった。それに清兵の射撃は猛烈で連合軍の砲撃がこれを制圧できずにいた。(つづく)