日本の砲兵陣地では、清兵からの銃砲弾がしきりに飛んで来る中、大田大尉がそれに動じることなく司令官に報告するためだとして立ち上がって付近の要図を書き始めた。そのときの状況が、『北清事変日本の旗風』第二編(森林黒猿著)に記されている。
「貝塚中尉は中隊長と共に此の敵弾を物ともせず、頻りに号令して益々猛烈に砲撃を続けて居りましたが、太田大尉の弾丸雨注の中に屹立して居るのを見て、今一度忠告を試みんと思うと同時に大尉は鉛筆と紙とを持ったなり、ドシンと尻餅を突いたから、中尉は馳せ行きて抱き起し『大尉殿、確乎なさいまし』と云いつつ、其顔を見れば、アラ痛ましいかな、眉間より流るる血汐は淋漓として顔面一面を染め、最早何の応えもないのであります」
臨時派遣隊司令部が参謀本部に発した電文には、
「歩兵大尉太田八十馬砲兵中隊を誘導して陣地に趣き戦況視察し際銃丸に中りて即死す 七月四日臨時派遣隊司令部」
と記されていた。
―7月4日
露軍は昨日の白河左岸における攻撃計画案を修正して再度福島少将に意見を求めている。最終的に福島少将は兵力が足りないので日本の後続部隊が到着するまで待つべきだとした。
だがこれ以降も露軍は各国を巻き込んで白河左岸における攻撃計画案を再三にわたって示したため、ついに実行されることとなる。しかし露軍が架橋資器材の運搬に困難をきたして予定どおりの行動ができないため、攻撃は中止されたのだった。
―7月8日
清軍と義和団は居留地の南西地域に浸透しており、居留地や白河沿いの交通を脅かしていた。連合軍としてはできるだけ速やかな対処が必要だった。
午前10時に福島少将は幕僚を率いるシーモア中将の来訪を受ける。その後の経緯が臨時派遣隊の作戦日誌に記されている。
「明日早朝を期し英日米連合にて居留地南方一、二里の地にある敵を掃いつつ西進して西機器局を攻撃するの策を提議せらる。我之を同意し遂に左の如く決議せり。
一、兵力
日本 四中隊と二小隊 山砲一大隊十二門
英 九百人 山砲四門 マキシム砲四門
米 一百人
二、明九日午前三時迠に梁園門門内に集合し三時左の行軍序列を以って行進を起こすこと
前衛 日本兵 本隊 日英兵
三、米兵は別に一縦隊となり土墻に沿い日英兵の運動に準い西機器局に向かい前進すること」
国立国会図書館デジタルコレクション
「北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])
海軍陸戦隊総指揮官山下源太郎中佐率いる陸戦隊(須磨・笠置・高砂の各1個小隊)149名は米軍に続行する。露軍から歩兵400名を出したいとの申し出があって予備とされていた。
なお臨時派遣隊は大沽北砲台守備などを除き7月7日に全部隊が天津に到着しており、その一部(約2個中隊)は停車場の防御についているので本作戦の兵員は約1300名となる。(つづく)