―6月30日

 福島少将がシーモア中将を表敬訪問した際、同中将から露軍司令官ステッセル少将の天津城攻撃計画案に対する意見を求められる。福島少将はその欠点を明らかにして代替案を示し、同中将もそれに同意していた。

 

 ―7月2日

 連合軍の軍事会議において、シーモア中将の天津城総攻撃計画が決定する。

一、露兵独兵は午前二時運動を起し白河の左岸を三叉口付近に向かい前進し水師営砲台を側背より攻撃すること」

「二、(その)他の連合軍は白河の右岸に運動し西機器局を陥したる後天津城を攻略して露独兵の運動を援助すること」

「三、総攻撃の時日は追って之を定むること(後七月四日と仮定セリ)」

計画を簡単にいえば、露独は右の水師営砲台、他は左の天津城を攻撃することになる。

 

 ー7月3日

 露軍が福島少将に敵砲台砲撃などの支援要請をしてきた。その際、露軍は先の天津城総攻撃ができないと言いだしたのである。その理由として露軍の攻撃正面に兵員と大砲が増強されたこと、攻撃経路上の鉄道橋が破壊されたことなどを挙げた。

 確かに馬玉崑(ばぎょくこん)武衛左軍15営(兵数約5600)が天津に到着している。ただ攻撃できないとした通知は露軍から直接福島少将に伝えられただけで連合軍としての決定ではない。よって福島少将は、総攻撃の正式な中止命令が出されていない現状では支援できないと断っている。

 その後シーモア中将から総攻撃中止の連絡があったことで、福島少将は露軍の要請に応えようと停車場付近に砲兵中隊を出した。この際前進の誘導をしたのがあの太田大尉である。

 

 日本の砲兵中隊長が停車場を守備する露兵に対して、放列布置に必要な掩護射撃を再三要求したにもかかわらず、露兵は塹壕内に潜んで応じない。そのため日本は陣地砲を布置できず、砲兵中隊長は司令部に状況を報告する。

 福島少将はやむをえず歩兵2個中隊を支援に出した。そこで驚くことが起きる。日本の歩兵が到着するのを見た露兵は2、3名ずつ群れをなしてその陣地から撤退してしまったのだ。しかも何の通報もなくである。

 

 

国立国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])

 

 停車場の占領は居留地防御のためには最緊要地で勝手な行動は許されない。日本の作戦日誌には怒りが記されている。

(そもそも)も停車場の守備は全防御線中に於いて最も困難とする処にして露軍の之が守備を他軍に委ね以て勤務上の労苦を平均ならしめんとするは猶(ゆる)す可き処なりと雖も既に決定せし交代の時限を待たず各隊自由に其守備を徹するが如きは軍紀に背き卑怯の事と云う可し」

 結局掩護射撃のため一時的に出した部隊が翌日の交代が来るまで陣地に張りつかなければならなくなったのである。

 さらに怒りを増幅させることがあった。露軍が福島少将に砲兵射撃を速やかに実施するよう催促したのだ。砲兵の射撃が遅れた原因は砲布置のための射撃支援をしない露軍にあったにもかかわらずだ。露軍のやることは一事が万事こういった調子となる。

 この日、天津城総攻撃を没にした露軍がその修正案を示す。①露仏が東機器局から北に大きく迂回して河東及びその北方の陣地を側面より攻撃、②その他の連合軍は停車場方向から敵陣地の正面を攻撃するというものだった。

 これは主陣地である水師営砲台と天津城の攻撃を他の連合軍に実施させて、自らは連合軍の東側、つまり敵の配備が薄い経路を進んで主陣地以外の陣地を攻撃するとしたのだ。最大戦力を持つ露が助攻に回るという呆れた計画であった。これに対し意見を求められた福島少将は、「今微弱なる兵力を以て堅固なる敵陣の正面を突くは得策にあらざる」として反対した。

 のちの日露戦争でステッセル将軍は日本の軍門に降る。その旅順に満州軍参謀として派遣されていたのが福島少将であった。二人の因縁はこの時に始まっていたようだ。(つづく)