―6月29日

 福島少将は歩兵第11連隊第2大隊とともに汽車で塘沽停車場を出発、軍糧城西側6キロの地点で下車する。軍糧城付近の鉄道は破壊されており、天津居留地までの残り約18キロは徒歩行進となる。兵卒は冬服(羅紗(らしゃ)服)を着ており、炎熱下の行軍はこたえた。沿道に樹木はなく、民家は焼かれ、人民は殺されるか、避難してしまい荒野のようだった。居留地が近くなるにしたがい砲撃音が大きくなり、将兵の気も引き締まる。

 大直沽付近は戦火の余燼(よじん)がまだ消えておらず、あちこちに死体が放置されていた。近くに露軍の幕営地があった。午後6時過ぎ、臨時派遣隊は天津居留地に入る。沿道は歓喜の声をあげる人垣であった。天津に戻っていた英国東洋艦隊司令長官シーモア中将が参謀を派遣して福島少将に安着を祝う言葉を伝えた。

 

 臨時派遣隊の「作戦日誌」がこの日から始まる。

「明治三十三年六月二十九日 晴

……天津に着す。

天津は今や重囲の内にあり。僅かに海口に通ずる一方面の開通しあるのみにして、日夜戦闘絶えず各国の守備兵も猶お寡弱にして……現時の状況に(かんが)み、遂に天津に止まり増加兵の来着を待つことに決す」

 

 天津城は白河の右岸にあり、大沽から北京にむかう際の要衝であった。その四方は高さ約8メートルの堅固な直立壁に囲まれており、攻略には困難を要する。その北東近くには天津に進入する外敵を制圧する水師営砲台、また南東2キロには天津租界(居留地)があった。居留地の北端は白河右岸で対岸の0.2キロ北に天津停車場がある。居留地は北から仏租界、英租界、米租界となっている。日本領事館は英租界の南側に、居留地の北側には三井洋行があった。

 

 

 

国立国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])

 

国立国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(柴田常吉, 深谷駒吉 撮影)

 

 

国立国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])

 

 天津付近の清兵は義和団を合わせて約1万5000、対する連合軍は臨時派遣隊(日本陸軍)を除いて約7200、詳細は次のとおり。

 日本陸戦隊   300

 露 軍    3700

 英 軍    2065

 独 軍     600

 米 軍     265

 仏 軍     218

 伊 兵      80

 墺 兵      65

 (合計    7293)

 

 清兵は停車場方面、紫竹林(仏租界)方面、天津城南門付近の3面、つまり北と西から居留地を攻撃していた。義和団は主として白河右岸の仏租界を攻撃している。連合軍の防御線は、天津停車場~三井洋行~北洋医学堂までの正面幅約1.5キロである。清兵の攻撃が最も激しいのは天津停車場であった。(つづく)