臨時派遣隊は―

 6月19日、1個歩兵大隊(歩兵第11連隊第2大隊)を基幹とする第1次臨時派遣隊の第1梯隊が広島の宇品を発つ。派遣隊司令官の福島安正(やすまさ)少将は第1梯隊の威海丸に同乗した。第1次は2個梯隊で将校以下1282名、馬匹268頭となる。

 福島少将は陸軍の統帥における最高補佐機関となる参謀本部の第2部長である。第2部は情報を所管とし、情報の収集・分析、諜報活動を主な任務としていた。福島少将は外国での勤務が長く、北京とドイツの公使館付武官を歴任、長期の出張では朝鮮、清国、インドなどに行っている。特に明治28年(1895)から同30年までの出張ではエジプト、トルコ、イラン、中央アジア、ビルマ、タイ、ベトナムなどの各地を視察した。

 また単騎シベリア横断で名をはせている。表向きは冒険旅行としていたが、実際にはロシアの政治・軍事および蒙古満州における清国の軍備を調査するものであった。そのようなことから清国に出兵する指揮官として福島少将は最適任だったといえる。

 福島少将は通訳として旧知の間柄で同郷(信濃)の川島浪速を連れて行く。

 

国立国会図書館デジタルコレクション

「亜細亜横断記」(南満洲鉄道株式会社総裁室弘報課 編)

 

 6月23日午前11時、威海丸は大沽沖に到着する。

 同日午後2時、福島少将は付近に停泊する巡洋艦常盤(ときわ)に常備艦隊司令長官東郷平八郎を訪ね、揚陸に関する協議をしている。翌日から揚陸を開始したものの、高い波浪や干潮による浅瀬乗り上げなどが影響し、司令部が大沽北砲台に上陸したのは25日午前11時であった。この砲台は17日の戦闘以後日本の陸戦隊が占領していた。この日の夕には第2次臨時派遣隊の先発が大沽沖に到着する。以後も波浪や干潮等の影響により揚陸が遅れ、すべての上陸が終わったのは7月6日であった。

 

 

 

 ―6月26日

 福島少将は青木中佐の命を受けた橋口大尉から天津の状況、彼我の兵力、糧食、宿営等の報告を受ける。彼は同じ参謀本部所属であり、ましてや福島少将は情報の第2部長であるからその帰属意識は高かった。

 日本領事館などがある天津居留地は6月17日から清軍の包囲を受け砲撃されていた。23日に露軍を主力とした約3000の兵が進攻したことで居留地以南は開放されている。天津には多量の糧米があるが、副食物が欠乏していること、宿営の家屋が得られることなどが伝えられた。橋口大尉が参謀本部に送った報告書にこうある。

「天津に在ては昨今居留民までも露兵の乱入を恐れる等稍もすれば日本兵の掩護を請求する有様に依て知られたり。殊に支那人を虐殺する有様も明らかなり」

 居留民は清兵や義和団のほかに露兵にも備えなければならなかったのである。天津の邦人は日本陸軍が1日も早く天津に到着するのを待っていた。

 天津の現況を知った福島少将は、部隊の前進は全部隊の上陸完了まで待つ必要はないと判断し、上陸した部隊ごとに逐次天津へ前進することと命ずる。また福島少将は大沽において指揮下に入れた大田大尉に命じて天津に副食や酒などを送らせた。

(つづく)