―6月18日

 午前、海軍省に大沽開戦が伝わる。軍艦豊橋からの電文には、

「十七日午前零時四十五分川口停泊軍艦と塘沽砲台と開戦、本艦午前五時三十分出艦まで尚砲声盛んなり」

 とあり、外務省には芝罘の田結領事から

「大沽砲台と列国軍艦(米国を除き)との間に戦闘開始せられたり」

「砲撃は昨朝八時を以って停止せり」

 と届く。そして参謀本部には陸軍歩兵大尉太田八十馬(やそま)の報告が芝罘の田結領事から発信されていた。

「十七日朝二時より各国陸戦隊千五六百大沽砲台を攻撃し占領したるものの如し敵は支那兵北京天津消息不明」

 列国と清軍とが衝突したことで日本政府も第2次臨時派遣隊の出兵を決定する。はじめから参謀本部が計画した増強2個大隊基幹を派遣していれば、ぶつ切りのような部隊投入にはならなかった。

 

 ところで、参謀本部に電報を送った陸軍歩兵大尉太田八十馬であるが、やはり参謀本部の名簿に載っている。太田大尉が前年芝罘にいたこと、先の電報が田結領事から発信されていることなどから、おそらく太田大尉は芝罘で諜報活動を行なっていたのだろう。

 太田大尉の6月24日の報告に、「任務施行上好都合なるを以て本官当分(ママ)沽砲台前なる軍艦愛宕に在り」とあることから、太田大尉の任務が裏付けられる。

 

 風向きが変わる―

 6月22日、英国政府は在東京の同国代理公使に訓電する。

「貴官は日本外務大臣に告ぐるに在北京外国公使館の危殆なること、並びにその救援のために赴きたるセイモア提督部下各連合軍も恐らくは同様ならんとのこと……日本政府もまた更に多数の救援軍を発送するに意なきやを確めらるべし」

 6月16日の時点では日本の大規模な陸軍派遣を必要としていなかった英であったが、自国民の安全に赤信号がともったことから早急に対処しなければならなくなったのだ。そのため天津に近い日本の出兵を促す事態に至ったのである。

 

 大沽の出羽常備艦隊司令官から天津危急の報告と出兵要求が届いたことで、日本政府も動き出す。

「青木外相は二十三日在本邦、英、米、仏、独、露、墺、伊の七国代表者を招見し、清国の形勢危殆に迫り、大沽及び天津に於ける列国軍隊も亦危険に瀕しているから、政府は列国との共同の措置を執ろうと欲する旨を告げ、各本国政府が現下の急要に応ずるため即時如何なる手段を執ろうとするかを通告するよう求めた」

 つまり日本として大規模な陸軍派遣ができるか、各国の反応を確かめたのである。英は先の訓電の要旨を通知した。英の後押しを得て、日本政府は6月24日に第5師団の動員に着手している。2日後の26日には派遣費用が裁可され、陸軍大臣桂太郎から山口第5師団長に動員命令が下る。

 

 問題は露独である。日本の出兵に反対はしないが、全権を委任することに異議を示す。日本が大軍を清国に派遣することで特別な権利を得るのではないかと危惧し、煮え切らない態度をとっていた。日本政府も露独の猜疑を避けるために動員を下したまま形勢を見守る。北清の情勢は日を追って悪化し、英国政府は急速の出兵を促した。

 やがて露独等も日本の出兵に対して異議のないことを知らせてくる。

 7月7日、桂陸軍大臣が山口師団長に清国派遣を命じる。英国の救援要請から2週間も経っていた。露独の猜疑心や欲深さが北京救援を遅らせたのである。だがこれ以降も、日本に主導権を握らせまいとする列強の思惑が北京にいる外国人の苦境を長引かせることになる。(つづく)