―6月16日

 在芝罘の()(ゆう)(りゅう)(ざぶ)(ろう)領事が青木外相に発信している。

「当地天津間の電線今朝破却せられたりとの報あり」

 それから半月ほどたった6月30日に鄭領事は青木外相へ電報を送っているが、それは天津から直線で400キロ南東の芝罘から送信されたものであった。

 

 意外なところから当時の天津(北京)と日本本土との通信系統がわかる。

「六月十六日 北京の外交団の運命について重大な懸念がある。サー・E・シーモアの一四〇〇名から成る小部隊は、北京と天津の中間で、連絡を遮断されている。義和団が片側に、正規軍がもう一方の片側にいて、十日以来北京から何のニュースもない。公使館が焼け落ちて、住人は命からがら逃げ出したというような、あらゆる種類の無責任な噂が飛び交っているが、信頼すべきニュースは入手できない。現在すべての電信は芝罘(チーフ―)経由できている」

 これはベルギー公使夫人の日記に記されていたものである。

 

 電信線は北京~天津~芝罘、芝罘からは海底線で上海~長崎~東京と敷設されている。その北京天津間と天津芝罘間が切断されていた。そのため通信は回線が生きている芝罘まで船で移動して行なわれたのだ。

「日、英、独、仏、米、伊は毎日順番に通信の為め芝罘に軍艦を派出することに相談一決実施し居るも露国は各国に関せず独り旅順に出すこととなし居れり」

 先の日記で驚くことが他にもある。シーモア隊が北京と天津の中間で連絡を遮断されており、片側に義和団、もう一方に清国の正規軍がいるとしていたことだ。

 まさに6月15日頃の状況である。日本は、6月16日時点でシーモア隊の苦境を把握していない。

 

 参謀本部は6月15日に天津の青木中佐から電報を受けている。

「廊坊付近に在る各国兵数は英九百十五、露三百……我兵五十二なり……今日更に楊村以西に於て鉄道壊わせり廊坊と交通絶つ」

 この電報からシーモア隊が北京と天津の中間付近にいることがわかるが、清軍や義和団の状況はわからない。

 6月20日に上海領事が青木外相へ発した電報に、「英国海軍将軍は北京に到着し公使館は総て安全なりとの報あり然れども未だ其確報を得る能わず」とあり、日本がまだシーモア隊の状況を把握できていないことがわかる。

 

 この日、青木外相は陸軍の派遣について駐日英国代理公使から意見を聴いた。『小村外交史』(外務省蔵版)にこうある。

「我が政府は、当初英国政府の賛否如何をもって多数兵派遣の条件としたようである。然るに英国は、当初我が多数兵の派遣を必要視しなかったようで、その回答はやや冷淡の観があった……」

 頼みとした英の態度は期待はずれだった。(つづく)