―6月15日

 午前10時からの閣議において少数の陸軍を出すことが決定される。先の編成から歩兵大隊1、騎兵小隊1、工兵小隊1および輜重隊を第1次として派遣し、状況に応じて自余の部隊を派遣することとしたのだ。

 それは日本が得意とする兵力の小出しであった。参謀総長大山巌がこの決議を上奏して允裁を得ると、桂陸軍大臣は直ちに第5師団長山口(もと)(おみ)中将に派遣隊の編成を命じた。

 

 この日、山本海軍大臣は、「清国情況益々非なるが如し。清国と列国との間に事を生ずるの(おそれ)ありと認む」と出羽(でわ)重遠(しげとお)常備艦隊司令官に訓令している。政府も同じような認識を持っていたものと思われる。また天津の露陸軍には砲兵が含まれている。だとすればどうして火力の要となる砲兵が削られ、部隊の逐次投入が行われるのだろうか。

 特に部隊の逐次投入は悪手である。日露戦争や先の大戦において、火力軽視と部隊の逐次投入によって作戦が頓挫し、非常に多くの犠牲者を出している。

 

 この日、鄭領事は西太后が直隷総督に下した内密の勅命を青木外相に発信している。

「西太后、北洋通商大臣に密諭して云く、速やかに天津の鎮守を大沽に派し轟提督を後応と為し予め職務に備え速やかに各国兵の上陸を阻止せしめよ」

 清軍が臨戦態勢に入ったら、列国と戦闘になるのはもはや時間の問題である。同じような内容の電報が天津の青木中佐から参謀本部に届いている。また正午過ぎに届いた電報も青木中佐からだが、内容は北京の柴中佐からのものだった。

「柴の電報伝達す

北京城外殆んど無秩序となれり。城内は尚無事。急に鎮定の望なし。露国は旅順より陸兵二千を出せりと云う。我国よりも相当の陸軍派遣の詮議ありて然るべしと考う。清国公使舘付 後十一時青木」

 もはや陸戦隊では手に負えないと柴中佐は判断し、具申したのだった。

 

 それでも日本政府は歩兵1個大隊基幹の派遣としたままでいた。

 ところでこの日、青木外相が、「帝国政府は近日中に先ず一千以上の陸兵を天津に派遣し場合に依りては同数の兵を続発することあるべし」と、天津領事に発信している。16日到着するはずだったこの電報は天津に届いていない。天津と芝罘(チーフ―)間の電信線が切断されてしまったのである。(つづく)