―6月13日

 天津領事からの電報が青木外相に届く。

「信憑すべき報告に依れば、露国兵千七百四十六名、馬匹二百七十七頭、大砲二十四門を携え今夜塘沽に上陸し北京へ向け進行すべしと云う」

 翌14日の電報には、

「露国兵千二百名昨夜塘沽より到着し尚『コサック』兵五百名馬匹二百七十七頭は今夕来着する筈にて右は六月十四日頃三日間の食料を携え陸路北京に向け当地を出発すべし」

 とあった。ロシアが陸軍を派遣したのである。北京に一番乗りすることで外交を有利にしようとしているのは疑いようがない。実際にロシアはどうしようとしていたのか。

 

 ドイツが山東半島の膠州湾を占領すると、ロシアは旅順・大連の占領を計画した。露大蔵大臣セルゲイ・ウイッテは中国と締結した秘密防御同盟に反するとしてこの計画に反対していたが、露陸軍大臣クロパトキンは全遼東半島の割譲を提案してそれが実現する。

義和団の騒乱が起ったとき、ウイッテは旅順・大連の占領が列強の中国分割競争を加速させ、ひいては義和団を出現させてしまったと考えていた。クロパトキンはそのとき旅行中であったが急遽ペテルブルグに戻り、大蔵省にいたウイッテを訪ねている。そのときの様子が『ウイッテ伯回想記日露戦争と露西亜革命』に記されている。

 

「どうだ君、とうとう関東州占領の結果が現れて来たね」

 彼は欣然としてこれに答えた。

「僕にとっては、この結果はむしろ望むところだ。これで満州占領が出来るのだから……」

 私は問うた。

「君はいったい、どういう風に満州を占領しようと言うのだ。我々の国の県にでもしようというのかね?」

 するとクロパトキンは答えた。

「いや、そうじゃない。しかし満州はどうしてもブハラのようにする必要がある」

 

 かつて中央アジアにあったブハラ・ハン国はロシア軍に敗れロシアの保護国となっていた。外交の面でロシアの権力下にあったのである。

 のちにこの満州占領が火種となって日露戦争が起こるのだが、このときクロパトキンは、とにかく軍を派遣しようとしていた。占領することが自分らの利益だと考えていたのだった。(つづく)