―6月10日

 午前10時50分に西公使の電報(第47号)が外務省に届く。

「列国公使は本日の会同に於て……在大沽列国艦隊の各司令官に対し電報を以て北京は殆んど封鎖の状態に在るに依り本官電信第四拾号に載せたる命令を執行するの時機到達せる旨を告ぐることに決せり……」

 この第40号に載せた命令とは、列国公使館が封鎖され、義和団が抑えられなかった場合、連合艦隊司令長官に北京救援を要求するというものであった。その列国公使会同は9日に開かれており、すぐに英・米公使は天津の領事に増兵要求の電報を出していたのである。そうした経緯でこの日にシーモア隊が北京へ向かったのだった。

 

 ―6月11日

 日本の陸戦隊を含むシーモア隊が北京にむかったことは天津領事から青木外相に報告されている。西公使からの電報は昨日の第四七号を最後に途絶えている。いよいよ陸軍派遣の機運が高まるものの、列強は日本に主導権を握られまいとし、また中国での権益を奪われないかと警戒した。

 

『公爵桂太郎伝』乾巻(徳富猪一郎編)にこうある。

「我が政府は、六月十一日、列国に向いて出兵の照会を発せしが、果たして表面こそ反対せざれ、内心には皆之を忌みたり。皆答えて曰く、共同動作の下に行なうならば、日本亦大兵を出すも可なりと。既にして列国は、又日本に対して出兵の自由を与えたるを悔い、日本の出兵に一定の制限を加えんとし、英国すら此議に加わらんとし、米国新聞紙中には、独り日本をして大兵を出さしむるは、欧州に対する蒙古人種勃興の機会を与うるものなり。露国を棄てて日本に依頼せんとするものは、之を三思すべしと絶叫したり」

 めきめきと力をつけてきた日本であったが、列強からは見下されていた。

 

―6月12日

参謀本部は、いずれ海軍力のみでは対処できなくなると考えて派遣に関する計画を進めていた。

「先ず歩兵二大隊、騎兵一中隊、砲兵一大隊、工兵一中隊及輜重隊等より成る混成支隊を広島及丸亀に於いて編成する」

これは外地に出る先遣として単独で戦闘の継続が可能な最低限の編成であった。

(つづく)