日本陸軍先遣隊の出動

 

 ベルギー王国特命全権公使として東京に駐在していたアルベール・ダヌタンの夫人メアリー・ダヌタンは日々のできごとを日記に記していた。

「五月十日 今日は皇太子が公卿(九条家)の出の節子姫とご結婚になる日である。ご結婚の儀は朝の八時に皇居内の神殿において行われた。……六時半頃、皆は宴会の間へ案内され、しばらくすると両陛下と皇族ご一同が入場されて大きなテーブルにお着きになった」

 この日、北京六条胡同にある日本の旧公使館でも園遊会が催されていた。それから15日後に北京の記事がある。

「五月二十五日 公使館の書記官メイ氏が北京から戻ってきた。彼の話によると現地は非常に不穏な状態にあるという」

 これ以降、刻々と悪化する北京の情勢が記されていた。

 

 日本政府は義和団が宣教師を含む外国人を襲い、停車場を焼払い、鉄道を遮断させているという北京からの報告が相次いでいるにもかかわらずのんびりとしていた。義和団の騒擾がキリスト教徒の排外行動であり、重大なことにならないとした西公使の報告を鵜呑みにしていたようだった。

 6月7日に青木外相が西公使に宛てた電報には、

「義和団の主義、目的及び其員数並に清国宮廷との関係及清国政府の彼らに対する態度等を可成詳細に電報せらる可し」

 とあり、これから義和団に関する分析でもするかというような状況だった。

 

 日本はそれよりも清国におけるロシアの動向に留意していたのである。また列強との共同歩調に重きを置いていた。列強に比して弱い立場にあった日本が先んじて事を起こして列国に疑念を抱かれないよう、反発を招かないように注意をしていたのだ。

 その背景には日清戦争後における露・仏・独の三国干渉という苦い経験があったからである。日本政府は、権益を狙っている列強に対して約束違反や言い逃れができないように念を押すことが必要不可欠であるとの教訓を得たのだった。

 

 義和団の騒擾が北京に及ぶと、政府は先ず海軍を以ってこれに対処させた。地理的優位にあった日本は大規模な陸軍を他国よりいち早く派遣できたが、列強の反発が予想されたので列強の出兵要請を得るまで待つことにしていたのである。(つづく)