戦闘が始まって2週間となり、列国水兵の死傷者数から各正面における激戦の程度がわかる。

 

       死     傷

  日    4    11

  英    2    15

  伊    5     7

  仏    6     5

  独    8     7

  墺    3     3

  露    3    11

  米    6     6

 

 これに義勇兵の死傷は含まれていない。

 死傷者数で日本は突出していないが、将兵数に対する死傷者の割合で考察すると、圧倒的に日本の死傷率が高い。将兵の数は、日本が25、英が82、伊が30、仏

47、独52、墺35、露74、米が56であるから、その死傷率は日本が60%、英が20%、伊が40%、仏23%、独28%、墺17%、露18%、米21%となる。

 

 日本はその6割が死傷している。それに続くのが同じ粛親王府で防御する伊である。やはり粛親王府正面が一番の激戦地だった。兵員の一番少ない日本が一番死傷率が高いのだから兵員不足となるのは明白であり、そうした状況で戦闘を続けなければならなかった。だから間瀬2等水兵のように3回負傷しているものの最前線で戦い続けているのだ。

 

 戦況は悪化するばかりで補給もない。頼りとするのは援軍だけだった。小川量平が7月2日にこう記している。

「……皆の気持としては援軍を今か今かと必死に待っているのに、いつか郎坊に着いたという説が流れてからもう半月にもなる。味方の死傷は日毎に増え敵の攻撃は益々激しくなって居る。……たまたま電光を見たり、或は遠くに砲声を聞けば、ひょっとして味方の砲撃ではないかと思ったりするのも無理はない」

 援軍が来るという希望がみんなを支えていた。(つづく)