―3日 雨 35.5℃

 午前1時半、米兵14名、英兵25名、露兵15名からなる攻撃隊はひそかに城壁上の米哨所に集結した。清兵が米哨所に坑道を掘って7、8メートルまで近づいていたので、元軍人の米公使と書記官は先に攻撃するしかないとして前日から準備していたのだった。

 攻撃計画は、米のマイエルス大尉の指揮する米・英兵が南側沿い、露のヴルブレフスキー大尉の指揮する露兵が北側沿いに攻撃し、城壁上西側にある敵陣地を奪取するというものである。

 その時ちょうど激しく雨が降っていた。攻撃隊は哨所を乗り越えて発進、突撃する。清兵の陣地に兵は居らず、後方の天幕に入り込んでいた。難なく胸壁を乗り越え、あるいは坑道にもぐり込んで幕舎を襲撃する。清兵を30人ほど斃して同地を奪取する。直ちに奥にある胸壁を敵方向きに改修工事をし、夜明けまでにおおむね完成させた。

撃退させられた清兵は100メートルあまり後方の陣地で外国兵に対峙した。この戦闘で米のマイエルス大尉が重傷を負い、他に死者3名、負傷者6名を出している。柴中佐はこの行動を評価した。

「此出撃成功の為、城壁上の我地歩は従前に比すれば大いに堅固になりまして其後は再び敵より甚だしき圧迫を受けぬ様になりました」

 

 前夜からの大雨で御河は水があふれ、川に累々とたまっていた馬、驢馬、犬など腐乱したものが一掃される。夕方になって水がひいたものの、河中の交通壕はひどく壊れていた。

清兵の大砲は主として仏公使館と北京ホテルを射撃しており、日本公使館にも多数の砲弾が落ちていた。

粛親王府は午前6時ごろからしばらくの間、観戯場辺りに砲撃を受けたほかは小康をたもった。柴中佐は次の後方陣地となる第3の防御線を停山北西~停山門~中壁中門~内門南側とした。

 

 食料などについて柴中佐が話している。

「此日我々日本人の手に有する糧食を調べました所、丁度此日より後二週間分の米と若干の昆布と椀元豆が一(ふくろ)ございました。又弾薬は水兵一名に付五十五発、義勇兵が二十発位ございました。此頃に至り我義勇兵の殆んど全部が銃器を持つ様になりました。又外科の薬料が尽き甚だ困りまして英公使舘の病院より分配を受けました。又各人の靴、袴、衣等漸く破れましたので公使や書記官の物を乞い受けて渡しました」

 守田大尉は、「爾後は弾薬を非常に節約すると斃したる敵屍より奪取するとの二法を以て、弾薬の尽きる迠で頑守する事に決心したり」としている。

 日本の食料と弾薬はまことに心細かった。(つづく)