水田栄雄の『北京籠城』から2人の様子がわかる。

「高田高田危ない危ない」

「ナァニ是ッ許りの敵に恐れて堪るものか」

「ソラ敵がモウ其向こうに進んで居るゾ」

「好シ進んで来い、二人位生捕って遣る」

「そりゃ高田詰まらないから止せ」

「構うものか運悪ければ戦死する許りだ。戦死したら手帳と写真を国許へ送って呉れ玉え」

 近くにいた水兵らは離脱し、その後間もなく高田3等水兵は頭に被弾する。清兵が近迫しており、水兵らが高田3等水兵を運ぶことはできなかった。

 

 中川軍医と山方看護手のいる繃帯所に、弓のように曲がった銃をつきながらよろよろと近づくひとりの水兵がいた。顔全体がぶつぶつで覆われており誰だかわからないので山方看護手が問いかける。

「ヤ誰だ如何したか」

「……敵の砲弾が直ぐ側に在る煉瓦の掩堡に当って、私は其断片で顔は此通り、小銃はこんなに弓の様に曲がりました」

「全体君は誰だ」

「私です私です」

 山方看護手は、その顔ではわからないと言おうとしたが、負傷者を落胆させないためにやめた。顔を洗わせると草薙3等水兵と判明する。額の傷は骨にまで達しており脳までかかっているのではと思われるほどの重傷だったので連合野戦病院へ送ることになる。草薙3等水兵はいたって元気で、「ナァニ此位の傷なら大丈夫です。直ぐに退院して出てきます」といった。その言葉どおり後日比較的早く退院したが、顔一面に数10の小さなくぼみが残っていた。

 

 連合野戦病院は英公使館の事務室だった。そこには50名あまりの重傷者がおり、傷の痛みに呻いていた。ついこの間まで外交文書が散乱していたテーブル上では手術が行なわれる。死者は1つの墓穴に3、4体重ねられて埋められた。墓穴がいっぱいになると、死体の順番が書かれた十字架がたてられるのだった。

 

 この日、義勇兵の野口多内を隊長とする教民隊が編成された。兵は新旧両派の教民30名あまりから銃を取り扱ったことのある10数名が選抜された。その日すぐに観戯場西側の守田大尉と中壁中門東側の安藤大尉とを連絡する中壁の守備につく。

 東大助教授の服部宇之吉はこの日から柴中佐の伝令となる。服部は福島県出身で父は二本松藩士だった。

「予は生後直に実母を失いて叔父母に養われ、翌明治元年奥羽諸藩官軍に抗したる際、我藩亦官軍の攻むるところとなりて城陥り、其の際実父は戦死し養父は藩主に随いて米沢に逃れ、予は養母と共に城外の農家に潜み居りしが官軍の捜索急にして危険に瀕したること一再に止まらざりき……」

 その境遇は柴中佐に似ていた。新政府軍は二本松から会津に攻め込んでいた。そうしたこともあって柴中佐は服部に親近感を持っていたのかもしれない。(つづく)