―2日 微雨 31.6℃

 朝から雨が降っている。柴中佐はこの日を「開戦以来の苦戦でありました」と振り返る。

 清兵は早朝から粛親王府に激しく攻撃をしてきた。午前10時ごろになると大砲2門を以って観音堂および回楼の焼け跡付近を砲撃した。同時に清兵は杉林の北壁などから日本側を瞰射して圧迫する。杉林を守る守田大尉は部下を叱咤して必死の防戦をする。しばらくして安藤大尉が部下を率いて急来し、共同して杉林一帯で粘り強く抵抗した。

 

 だが清兵の攻撃が猛烈であったため、安藤大尉は義勇兵分隊長西郡宗三郎に後方の岩築山に陣地構築を命じる。西郡分隊長は直ちに児島正一郎、平野守信、大迫半熊らを率いて岩築山で工事を始めた。岩築山は清兵にばく露しており、その弾丸が飛来する中での工事であった。水田栄雄の『北京籠城』にこうある。

「児島君は公使舘中での猪武者で……敵のドンドン打って居る所を、掩堡(とりで)の外に出まして盛んに煉瓦を積上げて居ます。平野君も(いささ)か是に励まされて、掩堡の外に出ようとすると、敵は(たちま)ち児島君を狙撃致して、その敵丸が狙い違わず兒島君の前額(ひたい)を打ち抜き、続いて飛び来る第二の敵丸が平野君の顔をかすって面部に擦過銃創を負わせました」

 児島外交官補は重傷で翌日午前1時ごろに死亡した。

 鄭通訳官はのちに回想している。

「……(ひょう)(ぜん)として児島官補がやって来た。何か用事があるのかと聞いたら別段のことではないが、君に預けて置きたい物があると云うのでポケットから、観音経一冊を取り出して、予に手渡した。……前途は如何なるか解らぬが、兎も角君預って置いて呉れ玉えと云うのだ。妙な物だとは思うたが別段気にも留めず、宜敷しい宜敷しいと其儘預ることに仕た。其翌日午前十一時、兒島官補は前額部を打抜かれ殆んど即死した。余は前日の観音経のことを想合わせて、妙に因縁の感想が起り、今に至って痛惜に忍びないのである」

 服部宇之吉は、「君天性豁達(かったつ)にして(すこぶ)る」才気あり、「人皆望を属せしに傷重くして終にたたざりしは痛惜の至りなり」と悼んだ。

 王府の防御に英・米・仏・墺の兵が支援に駆けつけるが、午後1時ごろになると清兵の圧迫にどうしても持ち堪えられなくなり、杉林一帯を棄てて後退する。午後2時ごろになると観音堂とその東側の家に火がつけられる。そのため守田大尉の隊は岩築山に後退し、伊兵も池の西側北山まで後退する。

守田大尉の日記にこうある。

「此戦に於て水兵高田佐太郎は杉林に於て即死し、遂に死体は敵手に遺したり。是れ此杉林の戦は非常の激戦にて我兵は殆んど潰走したればなり。又水兵草薙善治は砲弾の為め重傷を負う」(つづく)