不可解な大沽砲台攻撃

 

 海軍は笠置の派遣に続く陸戦隊増派を予想して6月6日に準備をさせていた。その規模は1個大隊(銃隊)で、25名の小隊が5個(2個中隊に編成)と軽47ミリ速射砲2門の砲隊等から成り、下士以下の総数は313名となる。大隊長は服部雄吉中佐、参謀が勝木源次郎大尉、副官が足立六蔵大尉、第1中隊長は白石(よし)()大尉、第2中隊長は野崎小十郎大尉であった。他に軍医長、主計長がいる。

 

 6月11日、陸戦隊を乗せた軍艦「豊橋」に派遣の允裁(いんさい)が下り、翌12日午後10時半に佐世保を出港して、同15日正午大沽沖に着く。翌16日午前9時に塘沽に上陸して独軍と塘沽停車場の守備についた。当初の予定では天津に向かう予定だったが、15日の第4回列国海軍指揮官会議でまずは塘沽の警備ということになり、交代が来たら天津に向かえという命令になっていた。

 

 

太沽砲台

 

塘沽桟橋

 

塘沽の鉄道

国立国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])

 

 翌16日夕、塘沽に停泊する軍艦「愛宕」に呼ばれた服部中佐は、第5回列国海軍指揮官会議の決議書を見せられる。

「最初清国政府は……現今彼等は白河河口に水雷を敷設し鉄道線に向て軍隊を進め……此等の行動は清国政府の外国人に対し公正なる約定を忘却したることを証するものなり。而して連合軍各指揮官は陸上に在る分遣隊と絶えず連絡を保持すべき職責あるを以て諾否の如何に係らず大沽砲台を暫時占領することに決せり。連合軍の兵力に訴えざる最後期は十七日午前二時とす」

 要するに大沽砲台を明け渡せ、さもないと力づくで奪い取るぞとしたのだ。これは北京政府に対する最後通牒というべきもので、北京政府が列国との戦争を決定づけた要因ともいわれている。この会議の参加者は、英、仏、露、米、独、日、伊、墺の8か国で、最先任は露のヒルテブラント中将、日本からは「笠置」艦長永峰光孚(ながみねこうふ)大佐が参加しており決議書には全員が署名している。この重大かつ危険な決議を簡単にしてしまう列国軍人のおごった態度に問題があったといえる。その代償として東交民巷で多くの外国人が死傷することになる。

 

 後年、大沽砲台の攻撃に参加した服部陸戦大隊の参謀だった勝木源次郎少将が、北京の日本公使館で武官だった森義太郎中将らと座談している。当時の決議について、勝木少将が以下のとおり話している。

「豊橋艦長(今の坂本中将)の話でありましたが、日本軍が三百人許りの陸戦隊を遣わしたから、急に今夜にも取って了おうと云うことになったのだと云って居られました」

 露仏は日本をだしにして開戦の機会を狙っていたのだった。(つづく)