12日午前10時20分、列車は露営地を出発して同11時廊坊停車場入口で停車する。停車場や線路ははなはだしく破壊されていた。炎天下、枕木やレールを運んで線路を修復する。作業を終えて列車に戻ったのは午後6時20分であった。午後4時には第4列車が追及していた。列車を廊坊停車場内に移動させ、その位置で露営となる。廊坊は天津と北京間の中間付近に位置し、北京までは残り65キロとなる。ただこの日の前進距離はわずか10キロほどであった。

 

楊村付近(復旧済みの線路)

 

廊坊停車場

国立国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])

 

 

 13日、前方を偵察すると、約8キロの間にレールが1本もない。レールや枕木などの修理資材はこれまでの復旧で残り少なく、近傍に補給の見込みもない。加えて義和団の襲撃が今後ますます活発になるのは間違いないので、この先の列車による前進は期待できず、徒歩による前進が検討された。行軍のためには少なくとも5日分ぐらいの弾薬と糧食が不可欠であり、その補給は天津または大沽に戻らなければできない。

 

 午前8時、第4列車(機関車と一部車両)が糧食・弾薬補給のため天津に向った。この列車に宇佐川小隊から酒井少主計と兵士4名が乗っている。そしてあの橋口大尉も乗車していた。

「森海軍中佐の依嘱もあり、他に十二日夜露の歩兵一連隊と砲兵野砲四門山砲四門コザック騎兵若干(ママ)沽沖に着する故、此視察を遂げ度同午前八時発の荷車に搭し同十二時前天津に来着す」

 天津に到着した第4列車の将兵は食料や弾薬の調達に動いた。

 シーモア隊は後方連絡線を維持するため、落垡停車場に英国兵60名の配置を決める。午後3時、第3列車でその要員が落垡停車場にむかった。

 

 14日午前2時半、落垡からの第3列車が廊坊にもどり、午前5時には天津から露兵若干名と食料をのせた第5列車が廊坊に到着する。パンと玉子が3食分、それに漬物、砂糖、水などが分けられた。また情報として日本公使館の杉山書記生が殺害されたことなどが伝えられた。

 補給のために天津に来ていた第4列車は線路が再び破壊されていたために廊坊に戻れずにいた。結局酒井少主計以下5名は天津で宇佐川小隊の帰りを待つことになる。

廊坊停車場から北方4キロほどに鉄橋があり、付近の線路が破壊されていることから、午前7時20分、各国の兵士が第1列車に乗って復旧工事に向った。

 

 午前9時50分、義和団と記された旗をひるがえす約300の団匪が廊坊停車場に押し寄せる。刀や槍をかざし、喊声を上げて突進する義和団は列車内外にいる各国兵からの激しい銃撃をものともせずひたすら前に突進する。だが義和拳のまやかしの奥義など通用するはずもなく弾に当たった者は次々に倒れた。20分ほどで義和団は撃退される。あとに残る死体は80ほどで老人や子供もいた。その多くが頭に紅色の頭巾、腰に赤布をまとっていた。(つづく)