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 朝早くから日本の居留民は公使館に集まっていた。そこにロンドンタイムス記者モリソンが来て、英をはじめ独・仏・米・伊・墺などは何れも当地に留まって天津に退去しないことに決まったと話し、日本と露のみが退去を唱えるのはなぜかと言った。

 杉幾太郎が、「其何故なるやを知らず」と答え、この談を書記官らに告げた。だが彼らは退去の準備を続けて一切の書類を庭に持ち出し、保存したほうがいいとする声があるなか焼却してしまう。その中には公使館設立以来の貴重な秘密文書もあったらしい。

 

 午前9時になっても総理衙門からは何の返事もない。各国の公使はふたたび会議行い、その中で独公使がまた総理衙門に行って圧力をかけようと主張したものの、再度否決されている。会議は散々もめるが、やはりまとまらない。しびれを切らしたのか、突然独公使が立ち上がり、11時に総理衙門を訪問する約束をしているとし、一同に代わって協議してくると退席する。その際、他の公使は危険だとして彼を引き留めたが、独公使は言うことを聞かなかった。

 

 独公使は公用の轎子(きょうし)(輿)に乗り公使館から総理衙門に向った。先導は馬に乗る中国人2人で、公使のあとに通訳官の輿が続いた。独公使館を出発してからものの15分と経たずに、先導が狂ったように叫び声をあげて馳せ戻ってきた。独公使が銃撃されたのだ。独兵が現場に急行すると、地面に血痕が残っているものの公使と通訳官の姿もなければ彼らが乗っていた轎子もない。血痕以外の痕跡はすべて消えていた。独兵が駆けつけるまでの間に撃たれた公使はどこかに運び込まれてしまい、重傷を負った通訳官は這うようにして逃げていた。通訳官は途中で米の宣教師らに助けられ、担架で独公使館に運び込まれている。

 

 各国の武官が英公使館に集まって今後どうするかで会議をしたが、誰一人として北京を引揚げようと発言する者はいなかった。ここに踏みとどまり、あらゆる手段を以って必死に防御していればそのうちに援軍が来るだろうから、それを待とうということに決する。そして各国の婦女子、子供、老人、病人は一カ所に集めようという意見があり、英公使館に入れるのが一番いいということになった。

 

 英公使館は各国公使館のなかで一番広い建物である。その東には日、仏、独の公使館があり、南には露と米の公使館があって防護される。北と西側は宮城、帝室付属の建物および役所がぎっしりとあり、それらが公使館の牆壁(しょうへき)と接触しているので、この方面からの攻撃は懸念するほどでもない。また儀鸞(ぎらん)(えい)の広大な芝生の広場は西側からの攻撃を困難にする。

 

 婦女子らの英公使館移転は混雑を極め、その日の午後3時ごろまでかかった。籐の寝椅子に横たわる西公使夫人は4人の中国人に担がれて付き添いの女中2人とともに英公使館に入った。外国人が約450人、それに付添のボーイやキリスト教学校の女生徒など中国人もたくさん入っていた。館内は人ばかりでなく行李やトランクなどの荷物で自由に動きができないほどになっていた。 

 

 柴中佐は、英公使館と日本公使館の間が安全に行き来できるよう、義勇兵に交通壕の工事を命じた。粛親王府から御河を横断して英公使館に至るその通路は河底を掘って造られる。作業には避難していた教民も動員されている。

 鄭通訳官は日本公使館の糧食係長となって炊事場を指揮した。炊事場は中川軍医宅に設けられ、植木師の中根、理髪師の若杉らが炊事調理を担当し、中川夫人、小川夫人および若杉夫人がその助手となった。石井書記官は英公使館に避難する日本人を監督し、その指揮下に書生の三上と写真師の山本がいた。(つづく)