東城の西南角付近となる東交民巷は、北が東長安街から(ほく)御河(ぎょが)(きょう)を経て兵部街、東(すう)文門(ぶんもん)大街、南が崇文門から正陽門(前門)までの城壁に沿った通り、西が兵部街に囲まれている。その区画は長方形を成し、東西に1キロ、南北に0.7キロほどであった。

 

東交民巷要図

国立国会図書館デジタルコレクション「北京籠城」(柴五郎 述)

 

 

 東交民巷の中央付近にある日本公使館は、中庭を取り囲んで東西南北に四棟の建物がある中国伝統家屋の四合院を増改築したものだった。レンガ造りで玄関のある南正面にはバルコニーがある。設計は長州藩出身の片山東熊(とうくま)で、代表作に旧東宮御所、現在の迎賓館赤坂離宮がある。

 

 

日本公使館内

国立国会図書館デジタルコレクション

『北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])

 

 

 日本公使館の周りには東隣に北京ホテルを挟んでフランス(仏)公使館、西隣に民家を挟んでスペイン(西)公使館、筋向いに道路を挟んでドイツ(独)公使館が所在した。日本公使館の西側150メートルほどに、北から南に流れる御河(ぎょが)(ぎょく)())がある。深さは2.7メートルほどだが、水はない。その河の西側に北からイギリス(英)、ロシア(露)、アメリカ(米)、オランダ(蘭)と各公使館が所在した。

 

 また日本公使館の北側には(しゅく)親王府(しんおうふ)という大邸宅があった。英公使館からは御河を挟んで向い側になる。そこに住む粛親王は清朝の皇族で歴代同名を名乗っている。愛新覚羅善耆(あいしんかくらぜんき)が父の死により爵位を継承して粛親王となったのは1898年(明治 31)である。その第14王女はのちに川島浪速(なにわ)の養女となり日本で教育を受けた。関東軍が満州で勢力拡大を謀っていたころ、彼女はその諜報活動に関わっていたとされている。世間から男装の麗人、東洋のマタ・ハリと呼ばれた川島芳子は日本の敗戦後に中国で逮捕され、漢奸(かんかん)(売国奴)として銃殺された。

 

 

粛 親 王

国立国会図書館デジタルコレクション「粛親王」(石川半山 著)

 

 英や露などの公使館の西側には清朝の中央官庁とでもいうべき兵部、工部、戸部、礼部などがあった。そこから北に進むと高い城壁の上にそびえ立つ2層の楼閣、天安門が現れる。他を寄せ付けない壮麗さは皇城の正門としての役割を十分果たしていた。

 

天 安 門

国立国会図書館デジタルコレクション「支那北京城建築」(伊東忠太 解説)

 

 

 5つの通路(トンネル)があるその城壁の南側には河があり、5つの通路の延長線上に五本の白い石橋が架かっている。中央の橋は皇帝専用で、その両側が皇族用、さらにその外側が官吏用となっていたらしい。橋の南側には左右の皇族用橋と官吏用橋の間に白玉石を彫刻した華表(標柱)と獅子があった。日本の鳥居は神社や神の存在を示すとともにその神聖さを表わし、狛犬は邪気を祓う意味があるという。華表と獅子にも同じような意味があるものと思われた。(つづく)