雨は面川沢にも降っていた。

 午前6時、母のことが心配で落ち着かない五郎はキノコや栗の入った籠をさげて留吉と山荘をでる。4キロほど歩いて堤沢村の北口に至ると、街道を埋めて2人にせまるずぶ濡れの避難民と遭遇する。みな南に向っており、北に進むのは五郎と留吉のみであった。幾人もの避難民が五郎に引返すよう(いさ)めたが、五郎はなんとしても母のもとに行こうとの思いで、いうことを聞かずに路外の稲田を走った。

 

 城まで2キロあまりとなる北御山の北端、中野に通じる分かれ道にたどり着く。遠く前方を見ると、黒煙のあいだに天守閣と櫓白壁がわずかに見えるだけで、五郎が住む屋敷あたりは一面火の海となっていた。

 五郎に追いついた留吉は、これではとても行けないとたたずんでしまう。五郎も無理なことを理解すると分かれ道の石標にすがり伏し、母上、母上とさけび、地面をたたき、草をむしって号泣した。

 

 留吉は五郎を引き起こして、母上はじめご家族は必ず面川沢に来るでしょうと慰め励ました。五郎は後ろ髪を引かれる思いであったが山荘にもどる。

 午後、山荘に来た面川村在住の叔父柴清助から家族の様子を聞かされた。

「今朝のことなり、敵城下に侵入したるも、御身の母をはじめ家人一同退去を()かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、いさぎよく自刃されたり、余は乞われて介錯いたし、家に火を放ちて参った。母君臨終にさいして御身の保護養育を委嘱されたり……幼き妹までいさぎよく自刃して果てたるぞ」

 五郎は呆然自失となり目まいとともに打ち伏した。叔父は、「驚き悲しむにたらず、いさぎよくあきらめよ」と言うが、相手はわずか九歳、まだ母に甘えたい子供である。いかに本当のことであったとしても、残酷な対応であった。

 

 城下の婦女子は去るもよし、籠城するもよしでそれぞれの家に任せられていた。だが母達は密かに決意を固めていたのだった。男子は一人だけでも生き残らせて柴家の相続と藩の汚名をはらしてもらおう、そして戦闘に役立たない婦女子は無駄に兵糧を浪費してはいけないとして籠城を拒み、辱めを受けないよう自害しよう、と。

 

 母達の自刃は終生五郎を苦しめた。軽い気持ちで家を後にしたあの時、祖母、母、姉妹はこれが今生の別れと知って見送っていたのだった。のちに五郎はこう記している。

「わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧(ざんき)にたえず、想いおこして苦しきことかぎりなし」

 

 これは柴家ばかりの出来事ではなく、城下では多くの婦女子が自刃していた。こうした悲劇が起ったのは、城下の婦女子は去るもよし、籠城するもよしとして各家に任せると示した藩の重役らの無責任さにあった。

 新政府軍が城に攻め込むまでに約7カ月の準備期間があったのだから、婦女子は伝手を頼るなどして避難させよと命じていれば、その多くは死なずに済んだはずである。

 あの赤穂浪士討ち入りの大石良雄(内蔵助(くらのすけ))は妻子に仇討の罪がおよばないよう離縁している。それに比べると会津にいた藩の重役らは婦女子に対する愛情が欠けていたというほかない。(つづく)