22日―

 新政府軍の進撃を認めた猪苗代城代の高橋権太輔は、とてもかなわないとして城に火をつけて退却してしまう。猪苗代城の兵200は母成の守備として出ていた。その敗戦によって散り散りになって逃げており、城に戻った兵はわずかだったらしい。

 

猪苗代城址

 

 

 猪苗代城での激戦を予想していた新政府軍であったが、途中抵抗を受けることなく炎に包まれた猪苗代城に到着する。そしてここを宿陣とする。だが川村純義は母成攻撃に寄与できなかった不名誉を挽回するかのように、雨の中、一隊を率いて戸ノ口の十六橋に向かう。

 

 

十六橋

国立国会図書館デジタルコレクション

「仁山智水帖」(光村写真部)

 

 

 十六橋は猪苗代から会津若松までの間における最短経路上にあり、水量の多い日橋川を渡ることができた。橋の南側は猪苗代湖が間近に迫っている。この橋が破壊されたら、対岸には船で渡るか、あるいは大きく迂回するしかない。そうなると新政府軍の進攻は遅滞する。会津にとっては守りの重要地点であったが、ここにも兵は配置されていない。

 

 

十六橋から見た猪苗代方向

 

国立国会図書館デジタルコレクション

「明治戊辰七十年を記念して」(福島県立女子師範学校編)

 

 

 鶴ヶ城に母成峠敗戦の報せが届いたのは、母成陥落から12時間あまり後になる22日午前5時頃であった。その知らせを伝えたのは猪苗代城にいた藩士で母成の敗戦を聞いて駆けつけたのだった。

 母成から鶴ヶ城までは約45キロなので、その伝達速度は毎時約3.75キロと軍隊の行軍速度より遅い。時代劇では事件が起こると早馬が街道を駆け抜ける場面がよく見られる。早馬での連絡体制が整っていれば、遅くとも4、5時間で伝達できる距離であった。要するに会津藩は母成との連絡体制は全く出来ていなかったということになる。

 

 それから重臣らが登城して評議が始まる。決定した防御要領は次のとおり。

①東の猪苗代・戸ノ口方面は佐川官兵衛が白虎、奇勝、回天、敢死、誠忠の諸隊を率いて十六橋を破壊するとともに、大野原、戸ノ口原、強清水において防御

②北の日橋川橋方面は萱野権兵衛が桑名兵200を率いて日橋川橋を焼払って防御

③南の冬坂(背炙峠)方面は西郷頼母が水戸兵150を率いて防御

 

 この処置を見ると、南へ兵力を配分する意味がわからない。新政府軍は鶴ヶ城の東側の猪苗代から進撃して来ているので、最短経路となる猪苗代方面に戦力を集中すべきである。それに猪苗代方面に充てられた兵員の構成も問題だった。白虎隊は十六、七の少年から成り、奇勝隊は農民、町民、僧侶などから成る。他の隊も募集に応じた町民、農民らから編成されている。戦力的に全く頼りない。どうして桑名兵あるいは水戸兵を加えてなかったのか。(つづく)