3月、新政府は東北地方鎮圧の組織となる奥羽鎮撫総督府を仙台に派遣した。総督九条道孝(公家)、下参謀の大山綱良(薩摩)、同世良修蔵(長州)らは横柄な態度で東北の諸藩に会津討伐を命じる。だが東北の諸藩は、朝廷を5年間守り孝明天皇の信任も得ていた会津藩に同情し、会津が逆賊とされる理由がないとして会津救援の和平工作を進める。

 しかし奥羽鎮撫総督府は東北諸藩の嘆願を全く受け入れず、あくまでも会津討伐を命じるのみであった。東北諸藩は薩長主導の新政府に不信感を抱く。特に長州はついさっきまで朝敵とされていたのだ。それに長州の世良修蔵が問題だった。傲慢無礼な態度で強硬な意見を発していたことから東北諸藩から怨まれ、とうとう閏4月、激昂する仙台藩士らに暗殺されてしまう。そして5月、奥羽と北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して新政府に抗戦することになる。

 

 江戸では、東征軍参謀西郷隆盛と慶喜の命を受けた勝海舟の会談によって、東征軍の総攻撃は回避される。4月に江戸城が無血開城され、慶喜は死一等減じられて徳川の家名存続も認められた。慶喜もさぞかしほっとしたに違いない。ただ薩長が慶喜討伐と振り上げたこぶしの落としどころは、当然慶喜が見捨てた会津になる。

 

国立国会図書館デジタルコレクション「実写奠都五十年史」(小林音次郎 編)

 

 

 東征軍は北上して奥羽越列藩同盟を結成した諸藩へ進攻する。参謀の大村益次郎は「枝葉を刈りて根本を枯らす」の方針により、奥羽と北越の諸藩を各個に撃破してその後に会津を攻めようとしていた。戦局は新政府軍の優位に推移して同盟諸藩の脱退、降伏、落城があいついだ。さらには新政府軍に協力する藩まで出ている。

 

 東山道総督府参謀の土佐藩板垣退助は棚倉、二本松と落としたものの、討伐の遅さに違和感を覚えていた。大村益次郎の方針にどうも納得できなくなっていた。

 8月19日―

 板垣は同じ参謀の薩摩藩伊地知正治に自らの意見を述べる。

早く根本の会津を絶てば、枝葉の仙台や米沢なども落ちる。今、会津は兵を国境に分散させているからその中央は空だ。それにもう30日もすれば会津に雪が降る。西南暖地の兵が東北の寒さを経験していないことからすると以後の進攻は困難になる。兵を進めるのは今で機を失うべきでない、と。

 

 ちなみに、この年(慶応4年)は閏年で「閏4月」があることから、その月数は13となる。8月といっても例年ならばすでに9月であり、あとひと月もすると会津に雪が降る時期となるのだった。

この相議によって会津攻撃が決定され、その突破口は伊地知正治が強く主張した「母成峠」となる。その過程において、猪苗代湖南側の御霊(ごれい)(びつ)(とうげ)から進攻する案をとる板垣は、猪苗代城(亀ケ城)と日橋川(十六橋)の障害を理由として母成峠に反対している。一方伊地知は会津の主力が布陣して守りの堅い御霊櫃峠は危険だとし、守備兵の少ない母成峠がよいとしていた。(つづく)