慶応4年(1868)1月3日

 慶喜上京の先供と称して会津・桑名藩を含む旧幕府軍約1万5000が「討薩の表をかかげて京へむかった。その行く手には約4500の薩長軍が手ぐすねを引いて待ち構えている。旧幕府側はすっかり西郷の術中にはまっていた。

 

 

国立国会図書館デジタルコレクション「大日本読史地図」(吉田東伍 編[他])

 

 

 討薩の表を携える滝川具挙は鳥羽口で道路を押さえる薩摩藩の兵を認めたので、関門に使者を出して道路を開放するよう求めたが、薩兵は応じない。朝命で上京するのだから通せ、通すことはできないと押し問答が続いていたが、突然、薩兵が旧幕府軍に砲撃を始める。午後5時ごろのことだ。

 不意を突かれた旧幕府軍は大混乱におちいり逃げまどった。銃に弾も込めていないのですぐに応戦もできない。旧幕府軍は臨戦態勢をとることなく、漫然と行列していたのだった。抜刀して突き進むが側方の藪などに潜んで待ち構える薩摩の銃隊に撃たれ、まばたく間に多数の死傷者をだす。鳥羽方面からの銃砲声を聞いた伏見でもまもなく戦闘が始まった。

 

 
国立国会図書館デジタルコレクション
「幕末・明治・大正回顧八十年史 第3輯」(東洋文化協会 編)

 

 旧幕府軍は薩長の3倍となる兵力に油断していた。奇襲をまともに受けたことで将兵の士気は一気に落ちてしまう。実戦経験も薩長に劣る旧幕府軍が戦況を挽回するのは困難だった。それに追い討ちをかけたのが錦の御旗で、これに驚いた旧幕府軍の士気はさらに低下してしまう。

 一番衝撃を受けたのは寝衣のまま部屋に籠っていたとする慶喜であったに違いない。正月早々からなんてこったなどと言ったかどうかは知らないが、これから一年半近くにわたって行われる内戦を戊辰(ぼしん)戦争というのは、この年の干支が「戊辰」であったからだ。

 

 ―1月6日夜、

 江戸に帰ると決した慶喜は臣下を欺くかのように城を抜け出して海路江戸に向う。その際、容保と定敬兄弟にも同行を命じていた。

 必死に戦っていた将兵に慶喜の東帰が伝わり、みな愕然とする。そして激しく憤り、あるいは失望落胆した。

「三百年の天下を三日にして失えるか」と。

 総大将に見捨てられて戦う意義を失った諸藩の将兵は、紀州に落ちるなどして江戸あるいは自らの藩を目指した。将兵は疲れ、飢え、また負傷している者もおり、散々な有様だった。

 

 のちに慶喜は座談会において、

「予は初め下阪の時、たとえ刺し殺さるるまでも会桑二藩に諭して各その国に帰らしめ……会桑二藩をも諭し得ずして、遂に『いかようにとも勝手にせよ』といい放ちしが一期の失策なり」

 と話し、悔恨(かいこん)していたらしい。慶喜としては容保と定敬を戦争の元凶としたいようだが、そもそも主戦を主張して暴走する自らの臣下を諭すのが先決である。慶喜にすれば、それなりの事情や言い分があってそのような話になるのだろうが、疑念は残る。(つづく)