国立国会図書館デジタルコレクション「南満洲鉄道沿線写真帖」(南満鉄道)
国立国会図書館デジタルコレクション「満蒙事変写真帖」(忠孝之日本社編輯部 編)
五郎はさまざまな困苦を乗り越えて陸軍の士官になる。彼を一躍有名にしたのは明治33年(1900)におこった北清事変である。義和団を含む清軍の攻撃を受ける北京の列国公使館地区において、武官の五郎は日本の指揮官として徹底抗戦し、列国公使館地区を守り抜いたのだった。のちに五郎は、任務を果たせたのは多くの中国人が危険を冒して食料を投げ入れてくれたり、天津の日本軍と連絡をとってくれたりして助けてくれたからだと話している。
当時、日本は中国を軽視していたようだ。だが海外勤務が長く中国の事情に精通していた五郎は、「中国は友としてつき合うべき国で、けっして敵に回してはなりません」と言っていた。それ以前に、江戸を戦火から救ったあの勝海舟が中国についてこう話している。
「支那は、流石に大国だ。その国民に一種気長く大きなところがあるのは、なかなか短気な日本人など及ばないヨ。……こないだの戦争には、うまく勝ったけれども、かれこれの長所短所を考え合してみると、俺は将来のことを案じるヨ」
見識を備えた人物からすれば、早くから中国に対する日本の危うさを感じていたようだった。
日露戦争後、やはり日本は誤った方向へ進む。欧米列強に肩を並べたとの思いからなのか、満州への経済進出を本格化させて権益の拡大を図った。例えば二十一カ条の要求では、山東省のドイツ権益の割譲、旅順・大連や南満州鉄道の租借期限延長などを強引に認めさせた。その結果、中国国民の抗日運動が盛んになる。また不信感を強めた列強との関係が悪化して日本の孤立化が進んでいく。
第一次世界大戦後に中国国内で国権回復運動が活発になり、日本の権益がおびやかされるようになった。そうしたなかで、かねてから満州占領を主張していた関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐がその計画を実行させる。
昭和6年(1931)9月、関東軍は柳条湖で鉄道を爆破し、これを中国軍の仕業と称して軍事行動を起した。満州事変のはじまりである。
その1年前のこと―
後に中央大学の教授となる法本義弘は、学校を卒業するとすぐ留学生として北京に渡った。北京内城の北西角付近にある西直門駅の待合室で、法本は突然弁髪の老翁に中国語で話しかけられる。
「閣下は日本のお方じゃろうなあ」
「然り。さり乍ら私は閣下ではない」
法本は中国語の「閣下」が普通の「貴君」を意味することなど知らなかったのである。(つづく)