倉石大尉、伊藤中尉及び長谷川特務曹長の三名は、切断手術もなく2月18日に退院している。だが、三名の凍傷は雪が解けても通常の訓練ができないほど悪かったようだった。そのため、三名はしばらくの間、体に負担の少ない捜索隊の後方業務に勤めている。
生存の下士卒八名は、重度の凍傷により手や足が切断されている。その重い順に列挙すると、村松伍長、阿部(壽)1等卒、後藤伍長、小原伍長、阿部(卯)1等卒、後藤2等卒、山本1等卒、及川1等卒となる。入院中の4月23日から5月8日まで浅虫温泉に転地療養していた。八名は9月10日に衛戍病院を退院し、同日付で兵役免除となった
遭難事故が明らかになった後、立見師団長、友安旅団長及び津川連隊長は進退伺を提出している。最後となった遭難者の遺体が発見された後に処分が下され、立見師団長と友安旅団長はお咎めなし、連隊長のみが軽謹慎7日となった。
その処分理由に、「速やかに救護の処置を為すべきに緩慢時期を失し遂に将校以下二百余名をして悲惨の極みに陥らしめたるは其職責を尽したるものにあらず……」とある。
死亡した将兵の親族は、死者は靖國神社に祀られるとして軍になだめられていた。だが、死者は靖國神社に合祀されていなかった。寺内陸軍大臣が桂太郎内閣総理大臣に閣議で決定するよう申請したが、内閣書記官長は前例がないとして書類を陸軍総務長官に返している。その重大なことが、どうやら遺族には伝えられていないようだ。
演習部隊が遭難し、多数の死者を出した原因は何か。
多少の影響があった要因を上げると、次のようなものが考えられる。
①連隊長の急な行軍命令、②気象、③目的地・経路の不知、④指揮の混乱、⑤貧弱な服装・装備、⑥捜索の遅れ
これらが決定的な原因とならない理由をそれぞれ一つ上げてみる。
①➡訓練練度が高ければ通常の準備が可能、②➡31連隊は踏破、③➡露営ができていたら、死者はなかった可能性大、④➡適切な判断をしていたら、遭難していない可能性大、⑤➡保有する服装・装備➡31連隊と同じ、⑥➡露営ができていたら、死者はなかった可能性大
31連隊は訓練をして練度が高かったから何とか遭難は免れた。また、服装にも工夫があった。同じように5連隊もしっかりと訓練をしていたら、田代街道を知っていた、スコップを多数携行した、深雪に橇を使用しなかった、地面まで雪壕が掘れた、採暖がとれた、食事がとれた、夜間の猛吹雪に前進することはなかっただろう。
結局、訓練(経験)不足が悲劇を招いたのだ。5連隊は田代で訓練できる練度になかったというしかない。 (来週に続く)