2月1日、山口少佐は5連隊の営所の隣にあった衛戍病院に入院した。
陸軍省(大臣)から派遣された武谷軍医の報告書には、「生命上の予後」は「疑わし」、「機能上の予後」は「両手両足を失うべし」とある。
その日、新聞各社の特派員は、「山口大隊長危篤」と東京の本社に電報している。
山口少佐の夫人は、他の遺族の手前をはばかり面会に行かなかった。
翌2日15時頃、侍従武官が衛戍病院に入院中の生存者を慰問し、「汝等宜しく軍医の言に従い一日も速く全快すべし」との聖旨を伝えた。
その日の夕、複数の新聞記者が病院に入院している生存者を見舞っている。
一番奥の病室に山口少佐が収容されていたが、危篤のため面会は許可されなかった。
第一室には下士卒8名が収容されていた。病室では眠っている者もいたが、苦痛などを訴える者もなく静かだった。
第二室にも下士卒が収容されていた。ここには最初に救出された後藤伍長がいた。
「後藤伍長も当初経過良好なりしが過度の談話をなせしため脳を刺激して病勢少しく逆戻りの様子なりと云う」(福良竹亭『遭難実記雪中の行軍』)
第三室は伊藤中尉の病室だった。
「今度は非常なる御困難で……」、「遠路難有うございます」
その次の病室には倉石大尉がいた。
「見舞いの言葉を述べしに頭を擡げて『それはどうも……』とて余の好意を喜ばれぬ」
「伊藤倉石の両氏は凍傷も軽ければ此の一週間も経過せば二、三十分の談話には差支えなからむとのこと」
「最初より収容せし患者十三名の中、山口少佐及び彼の後藤伍長の稍々危険となれると少佐等と共に救い出されたる高橋伍長(房治)が死亡せしのみなりき」
立見第8師団長が5連隊の営所に到着したのは2日19時頃だった。東京で実施されていた師団長会議を途中で終え、前日18時上野発の列車で青森に帰ってきたのだった。
「立見師団長見舞いとして入来たり四、五間前きに現れたる時終に死去せり」(2月4日、日本)
「二日午後八時に至り容態俄に変じて危篤に陥り同三十分眠るが如く逝去せられぬ、臨終の際病院より家族を呼び夫人禮子駆け付け来たりし時には既に間に合わざりき」(2月7日、報知新聞)
武谷軍医は陸軍大臣に「午后八時俄然呼吸及び脈不良となり心臓麻痺に陥り仝三十分死亡す」と文書で報告している。
俗説に、山口少佐は拳銃で自決したとされているが、誰がそれを言い出したのか。それがわかると、その真偽も明らかになる。
(来週に続く)