『八甲田山 消された真実』こぼれ話その11 

 1月27日大滝平で後藤伍長を発見してから6日後となる2月2日、真面目(しんめんぼく)な捜索隊が田代新湯に向かった。

 陸軍大臣直命で現地に派遣された田村少佐は2月5日大臣に報告している。

「三十一日田代を捜索する為此の付近に地理に熟する人夫若干を派遣せり、此の人夫は同日田代に達するも悉く捜索せずして報告せんものの如し……」

 このときの捜索に五聯隊の隊員は同行していない。そのため、捜索は実施されずその後どうなったのかもわからない。軍関係者が同行して経路や現地の状況を確認するのが当然と思われるのだが、どうも五聯隊は違っていた。

 

「二月二日佐藤中尉の率いる捜索隊を更に田代に向け捜索に派遣せり、此の捜索隊には此の山中に於ける炭焼き人を嚮導として同行せしめ……」

 この捜索において、大崩沢の炭焼き小屋において長谷川特務曹長他3名、田代元湯で村松伍長が救出された。

 速やかにこのような捜索を実施していれば、結果はもっと違っていただろう。

 田代(新湯)方面への捜索が大幅に遅れた理由に、①死体捜索とした聯隊長の判断、②田代(新湯)に関して無知だった、③天候が悪かった、等があったと考えられる。

 

田代元湯

 

田代新湯

(『遭難始末』明治35年)

 

「田代迄の道といったらそれは実に喩えようのない程悪いのです……参謀官を始め其他の随行員も大抵二、三度は転がって居ましょう。田代と申す処は山腹で家は僅か一軒しかありません……其家には老夫婦が居り佐藤中尉の捜索隊が行った時などはあらん限りの貯えを出し非常に御馳走をしたそうです……」(2月10日 時事新報 「知事の談話」から)

 

 佐藤中尉以下の捜索隊は五聯隊として初めて田代新湯に到着し、その現状を認識したのだった。