東海記者の「三十一聯隊雪中行軍記」は、1月28日の東奥日報から掲載が始まっている。その28日の記事は1月22日の行軍状況からとなっている。21日までの原稿は郵便状況で本社到着が遅れるなどして2月4日の掲載となったのだろう。28日の東奥日報はない。五聯隊の後藤伍長が山中で救出された翌日の新聞である。

 

 

一回目の休憩場所菊地家での写真撮影(右端しゃがんでいるのが東海記者)

(青森市史別冊歩兵第五聯隊八甲田山雪中行軍遭難六十周年誌)

 

 

 この教育(訓練)に参加した間山伍長が手記を残している。1月22日(3日目)の状況を抜粋すると以下のとおり。

 

 午前六時三十分切明出発し進藤伍長〇先導として十和田(※1)を指して前進す

 八時五分赤倉山断崖に於いて写真撮影す(※2)

 

 十和田山(※3)標高二千五百米突の頂上に向へ傾斜地を前進す頂上に達せしは午后二時半なりき時に福島大尉殿始め各人の悦ぶ事実に甚だし……南に向へ福島大尉初め〇して各人皆な天皇陛下萬歳と唱へ……

 雪中泳ぎ降り山腹に降りしとき一羽の兎は山中に響きたる声に警を頂上より駆降りみるより〇〇射撃せしに一発にして兎斃れし……

 

 此の日は気温朝〇下四度昼〇下三度夕は〇下三度にして……風雪面を打ちこと弾丸の如き……午后三時四十分十和田村に到着す

 

 鉱山事務所に舎営して其の夜事務所にて酒肴甚だし……

 

※1 十和田とは十和田湖東側湖畔の銀山である。

※2 高木勉『われ、八甲田より生還す』の巻頭にある写真で隊員の被服が雪で白く写っている写真だろうか。

※3 切明温泉から銀山までの間に標高が1000メートルを越える山はない。十和田山(標高1053.9メートル)は十和田湖の東側に現存するがこの山ではない。銀山から直線距離で2キロほど西にある岩岳(標高880メートル)がその可能性としては高い。 

 

 雪中露営の命題を実施しようとした五聯隊、夜民家で饗応を受けていた福島大尉、これが実態である。