終 章

 

 公使館地区が開放された翌15日早朝、柴中佐は敵陣地に残された馬に跨り城内で行動していた。山口師団長から2個歩兵大隊と1個砲兵中隊を与えられ、皇帝がまだ宮城にいるかも知れないので宮城の各門を占領しろと命じられたのだ。市街はいたる所に少人数の敗残兵(清兵)がいたので市街戦を実施しつつ前進し、各門で頑強に抵抗する清兵を掃討した。

 

 柴中佐は師団長に報告のため部隊から離れて師団司令部が置かれた公使館にむかう。途中、敗残兵50人ばかりに遭遇して撃ち殺されそうになるものの、回避して無事だった。柴中佐の前後で護衛する憲兵2人は撃たれていた。やはり柴中佐は強運の持ち主といえる。

 

 

 皇帝と西太后らは15日未明に宮城の北にある地安門を通って万寿山に逃げていた。その逃避行は1000キロあまり南西に下った西安まで続く。一行の中には主戦派の首領瑞郡王もいた。

 ちなみに、柴中佐が地安門に到着したのは彼らが通過した2時間ほど後だったらしい。

 

 その朝、守田大尉が義勇隊一同を集めて義勇隊の解散を命じる。皆が武装を解き、晴れて自由の身となった。義勇隊が初めて公使館の玄関前に集合したあの時、安藤大尉が開口一番「義和団諸君」と言ったことが想い出される。

 

国立国会図書館デジタルコレクション

「北清事変写真帖」(第五師団司令部 撮影[他])

 左から守田大尉、柴中佐、原大尉(海軍)

 

 服部宇之吉が『北京籠城日記』回顧録に「同胞の働きぶり」を記している。意訳すると次のとおり。

「我等日本の水兵と義勇兵は合計60人ばかりで某国の水兵の数にも及ばない。我が義勇隊の武装は貧弱であった。しかし、我が守備区域は単に全体が長いばかりでなく、敵の攻撃が最も猛烈であった。これは事実で籠城者の誰もが知るところである。

 

 我等自身は勿論気づかないことであるが、我等が少数で難所を引き受けてしかも一致して常に快くその務めに当っていたことが深く外国人の心を動かしたと見受けられる。特に最も強く防御司令官である英国公使の心を動かしたようだ。同公使は公使館を敵に奪われ退却した伊国兵を我の援助として派遣したばかりでなく、中途より英国水兵若干を派遣し、さらに後には毎日義勇兵2、3名を派遣して我を助けてくれた。

 

 英国海軍指揮官は毎日、日本の陣地に訪れて戦況を視察し(惜しいことに7月某日我が陣地視察中敵丸に当って死亡した)、ロンドンタイムス北京通信員にして公使以上の勢力があると称せられたドクトルモリソン氏もより一層訪れて我が陣地を視察する等皆我等同胞の活動に対する同情の発露であるのは間違いないだろう。我等は良心の命ずるところに従って行動したまでのことだったが、外国人の目には特別に映っていたものと見える。

 

 援軍が入京後、英国公使がその司令官等を集めて籠城の経過を報告する際に、同公使はありたけの言葉を尽くして同胞が能く難局にあたって守りを完全に行なった功績をほめたたえ、公使館地区を守り抜いた功績の半分は同胞にありと言われときには、思わず涙が流れたと柴中佐は義勇隊解散の日に再び涙を拭いつつ我々に告げられた」

 

 突然と義和団の乱、北清事変に巻き込まれ、公使館地区に閉じ込められてしまったサムライたちは、その苦難に必死で立ち向かった。

 臨時派遣隊司令官の福島少将などは、連合軍となった各国の軍隊が約束を守らずに勝手に行動し、あるいは全く戦力にならないなどでほとほと呆れていた。

 日本人と外国人の違いは何か、そして籠城のサムライを支えていたものは何か。やはり大和魂と武士道にほかならない。

 

 柴中佐は10歳のときに母や妹らが自刃し絶望的な悲しみを味わっている。逆賊の汚名を着せられた会津は落城し、一家は本州最北の下北に移住する。そこで寒さと飢えに苦しんだ。下僕や流浪の生活も経験したことで世の厳しさも知った。五郎は幼いながら歯を食いしばって懸命に生きていた。それは母に生かされたからだった。新政府軍が城内に攻めてくる前に遠くへ避難させられていたのだ。

 

 陸軍幼年生徒隊に入学したものの、知識のないフランス語に苦しめられて、悔し涙にくれる毎日だった。だが消灯後も便所の明かりでがむしゃらに勉強した。五郎はさまざまな苦難に決してあきらめることなく、全力でそれらを乗り越えてきたのだ。

 

 今こうして絶対的不利の中で粛親王府を、ひいては公使館地区を守り抜いたのである。柴中佐の巧みな戦術や適切果敢な指揮、惨澹たる状況下においてもあらゆる困難を克服して戦い続けた不撓不屈の精神は、各国の公使や将校らから称賛された。

 

 柴中佐が公使館地区でとことんまで頑張ったのには、もしかすると会津で落城の憂き目を見たことが影響していたのかもしれない。自刃した母や妹らを何度となく思い出し、自分は決して負けない、陥落させないと闘志を燃やしていたに違いない。

 

 連合軍によって北京が開放された後、各国に警備区域が割り当てられ、日本は内城の北部を担任する。山口師団長は区域内の秩序を回復し安寧を保持するため直ちに軍事警務衙門を編成した。警務衙門長として戦後の混乱を取り締まったのは柴中佐である。その部下には守田大尉と橋口大尉がいた。日本軍は軍紀厳正にして北京市民を厚く保護した。そのため、他国の区域から日本の区域に移住してくる者が多かったという。こうしたことによって、北京市民の間に柴五郎の名前が知れ渡ったようだ。

 

 10月下旬になると警務衙門の業務も軌道にのり、列国警察事務委員会議も組織され、柴中佐は公使館付武官の本務に戻る。その際、山口師団長は柴中佐に次のとおり訓令している。

「一、貴官が熱心、機敏に我が占領区域の秩序を大いに恢復せしは(ただ)に予のみならず列国のまさに承認する所なり。是れ列国軍が貴官の警察法に倣い全市に警察の制を布かんとする所以なり。予は此労を謝し併せて其列国の模範と為りたるを喜ぶ。

二、今や警察事業略〻其緒に就き且貴官は警察事務委員と為り且今後北京外交の漸次多端なるに際し、公使館付武官の事務従って多端と為るに至らん。因って貴官は其本務に復し且つ列国警察事務委員と為りて予と気脈を通じ、時々発生する軍事外交の衝に当たり予を輔けて遺憾なからしめよ。

三、(略) 」(要旨)

 山口師団長や列国軍の指揮官らは柴中佐に絶対的な信頼を寄せていた。

 

 晩年に柴五郎が話している。

「私の名前が柴という中国にある名前なので、中国人をこのように理解してくださるのは、祖先が中国人だからでしょう……という者さえあって、今日でも手紙をくれる人がいます」

 西直門停車場待合室での老翁のように、北清事変から30年経ってもチャイ・ウー・ランは伝説のごとく語られていた。

 北清事変から3年あまりして日露戦争が始まる。その前にロシアを牽制する日英同盟が締結されているが、その根源に北清事変での柴中佐とマクドナルド英公使との信頼関係があったことは間違いないだろう。

 

(終わり)