舌(後編) | 八光流 道場記

八光流 道場記

京都で約30年、師範をやっております。
つれづれなるままに書き綴ってまいります。

その女は、降りしきる雨音にかき消されそうな小さな声で奇妙な舌の話を続けた。

「半年程前から始まったんですが、原因不明でいつも何の前触れもなく出て来るようになって 一旦出始めると自分の意思では止める事も引っ込める事も出来ないんです」
彼女は、困り果てたように溜め息混じりに言った。

「神経性の症状でしょうが、そんな話は聞いた事ないですね」とおれは、彼女の言動に注意しながら精神を落ち着かせる治療のプログラムを頭の中で組み立てていた。

その時 彼女が突然身体を硬直させて言った。
「始まりそう また!」

おれは、彼女の顔に近付き症状を観察した。

彼女は、やや上を向いた状態で「アガッ アガッ」と何か言おうとしているが言葉にならない。

そして 遂に出て来た。
赤紫で長い まるで彼女とは別の生き物みたいな舌だった。それは、何かを舐め回すようにのた打っている。

彼女は、背中を反らせて「アゥ~」と呻きながら白目を剥き 両手の指は何かを掴むように少し曲げた形で固まっている。

彼女の舌 いや状況のおぞましさにおれは、鳥肌立つのを覚えた。

おれは、最悪の場合彼女が舌を噛まないように彼女の顎関節に手を伸ばした。
おれの指が彼女の顎関節に触れたと同時に物凄い雷鳴が轟いた。


次の瞬間おれは、事務椅子に座った状態で目覚めた。

夢だったのか?それにしてもリアル過ぎる。

おれは、玄関をよく調べたが、誰かが入って来た形跡はない。
この雨の中 何者かが入って来たら玄関の土間が濡れている筈だが土間は乾いていた。

「それにしても 気色悪い夢を見たもんだ」と独り言を呟きながら治療室に入ったおれは「何 !?」と総毛立った。

治療台の上に施術内容記録書と いかにもこれから記入しようとしてキャップを外したボールペンが置かれていた。

これは、おれが無意識に自分でやったのか?

外は、少し明るくなっていたが、まだ遠雷が鳴っていた。

あれは、随分昔の事で今となってはその女の記憶は30才前後の和風美人だったと思うが、白目を剥いて長い舌を出した顔しか思い出せない。

あれは、多分現実では無かったんだろう。

しかし いつか何処かであの女と出会う事があるような気がしてならない。