揺れる小岩川



まず、

天保4年の小岩川について。


戸数70〜74戸

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現在のおおよそ半数ですね🙄

根拠と致しまして、

寛政年間の記録で70戸

明治8年の記録では74戸..。
村の規模が把握できれば良いと考えたので、70〜74戸としました。


出来事大凶作

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天保4年は、
大雨による洪水や冷害によって、全国的に大凶作だったようです。
世に言う、"天保の飢饉"
小岩川も例外ではなく、救済米の配給があったようです。



次に、

どのような地勢であったのか。



全景を描いたような、

絵図等は遺されていません。



限りなく、

江戸時代の小岩川に近い姿であろう写真..。



小岩川では、
居間や仏間に飾っている方も
いらっしゃるかと思います。


私は、
集落史(※1)からお借りしました。




Google Earthの画像と、

以前撮った写真↓



サムネイル
 

​比較するには、

不十分すぎる..
かもしれません。



ですが、、


元は砂浜で..

みたいなところがあって..

のような岩礁があって..

島と砂浜を繋いでができて..



などなど、、



小岩川を知らない方でも、

ザックリ..と環境は

知って頂けると思います。



ちなみに..古写真に写る、

島のような岩礁は、

"平島(ひらしま)"といいます。



"平島"と大学の休暇で帰省した祖父

"小岩川の船小屋"と祖父


ドイツ語で書いてありましたが、

どうやら友人と遊んでいたようです🤭



では..
本題へ移ります🙄



ここからは、
天保4年(1833)
庄内沖地震における



小岩川の被害
②避難行動の考察


手に入れた記録(※2)から、
①→②の順で展開していきます。




①小岩川の被害


①-1.建物の被害

・損壊した家→11軒

・損壊した土蔵→2棟

・損壊し傾いた土蔵→8棟

・損壊した小屋→63棟


①-2.津波による流失

・漁船(大小)→8艘

・米→2斗5升

・稲束→300束

・大豆→8俵

・麦→2俵

・栗→3俵

・蕎麦→2俵

・籾→38俵2斗-6斗

・牛→1頭


①-3.死傷者

・死者→なし

・ケガ→女性1名




..以上が、

記録されている

被害の内訳となります。




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大岩川や早田、

鼠ヶ関とも比較したけど、

流失した建物が無いのはナゼ?


オマケ程度に、

流失についての考察。



海に面した環境にしても..

船小屋が並ぶ写真をみても..



津波は襲来したものの、


  • 流失までは無かった
  • 損壊した小屋の数へまとめた



どちらか、と考えられます。



もしかすると..

祖父の写真にも写る平島や、

こんもりとした住吉岬が、

津波に対して
機能したのかもしれませんね。
(防波堤のように)




1.小岩川のハザードマップ(※3)

2.古写真に天保の津波を当てはめる


 

鶴岡市が作成した、
ハザードマップ..。
(出典は記事の最後に)



「天保4年の庄内沖地震では..」
との記載があります。


津波の想定として、
少なからず参考にしたのでしょう。


標高の記載もありますから、
先行研究(※4)と照らし、
2枚目を作ってみました。


↑大雑把に..ですけどね(笑)




続きまして、

②避難行動の考察



私たちの先祖は、

どのような避難行動を取ったのか



まず、避難場所。



避難場所は、今も昔も

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大きく違いはないだろう


と、考えました。



先行研究によると..


津波は、

段波状に襲来した

と考えられています。


震源は、湯野浜沖..。


短時間で襲来したと

想像できます。



Googleマップ等で

見て頂くと分かるのですが、




サムネイル
 

短時間で..かつ、

まとまった人数が
分散して逃げれる場所.. 



五カ所に絞られます。


・住吉神社

・西光寺

・小岩川駅裏(←寺付近)

・寺山(←寺の裏山)

・モリノヤマ霊場





1.推定震源地小岩川 

2.境内の高さがわかる名残

3.↑を別角度から(※5)



では、どのような
避難行動であったと考えられるか。


少ない手がかりから考察..。

・先ほどの①(被害の内訳)
・地震後の記録


①の内訳では、
食料の損失が目立ちます。
死傷者数も、
ケガ.1名で抑えられています。


地震後には、
"救援米"の手配が
追加でなされた記録がありました。



そこから想像するに、

食料やら、家財そのまま..
着のみ着のまま..。
自宅へ戻ったり、

海を見に行くこともなかった。


天保飢饉も重なり、
地震後の食料事情は
最悪であったことでしょう。


しかしながら..


現代の"津波避難の原則"
当てはめたとき、


先祖たちが取った行動は、
満点だったのだと思います。




さて..。

ぼんやりとした考察になりました。




小岩川の歴史を

防災の点からみつめたとき、



・防災意識の高さ

・まとまりの良さ



もみえてきます。





本日の6.18地震の日も、


集落の有線放送で、

サイレンが吹鳴されたり..


消防ポンプ車が巡回していました。




防災意識の高さは..昔から。


文句を言い合いながらも、

なんだかんだで、

まとまりがあるのも..昔から。



私たちは、

防災の点においても、先祖から

誇るべき伝統を受け継いでいる。



数々の誇るべき伝統。



その延長線上で、

私たちは生かされ

生きているのだと感じました。