第1章「どうして僕はD.J.になったのか」 その19 VIVAビバな日々1 | 実録!博多ディスコ物語

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1976年からD.J.をしてるD.J.萩原誠(当時D.J.Sam)が体験談と取材やインタビューをお届けします。
(敬称略愛称で、どうぞお許しください)

 

1976年当時、人気のディスコといえば

「VIVAオオサマ」

「Big Together」

まずは、VIVAオオサマ

天神の渡辺通りと国体道路が交わる

渡辺通り4丁目交差点の中州側

大丸と国大道路を挟んで向かいにある

「東カンビル」の2階にありました、

中州で「高級クラブ王様」や

「ナイトレストラン・ララ」などを

経営する王様観光のディスコでした

当時は、クラブ、キャバレー、ホテル

などを経営している会社がディスコを

オープンさせていました。

いつ、VIVAオオサマが出来たか

僕は、よく分からないんです

気がついたら「アッタ!」って感じで

ただ僕が、VIVAオオサマの

2周年記念パーティーのチケットを持っていて

その日付が昭和52年(1977年)なので

オープンは、1975年の夏じゃないかと思います

ブラックビーンズって後のニックニューサーの女性ボーカル

「ノンちゃん」がいたバンドですよねぇ?

DJにランドリーの名前が!

ハーフでめっちゃ男前なのにバリバリの佐賀弁を喋る

ランドリー、後に新天町のロベスピエールで働いてて

一緒に一時バンドやってました

 

 

さて、この「ビバ」って言葉ですが

意味は、喜びの掛け声みたいなもので

日本では「バンザイ」に当たる言葉です

70年代に入ったぐらいから

ラジオの「オールナイトニッポン」とかでも

「ビバ〜!ヤング、パヤパヤ、ビバヤング!」

って感じで使われていて

ナウなヤングの流行語だったんですね

(全部死語)

 

で、1976年アメリカは建国200年記念でして

その曲をフランスの

スタジオミュージシャンのユニット

「バンザイ」

「VIVAアメリカ」という曲を

リリースさせて日本で大ヒットになります

だからVIVAオオサマってディスコは

時流にバッチリ乗った

最先端ディスコだったんです

そのVIVAオオサマも前回ご説明したように

主流は、バンド演奏なんです!

バンドが2グループ〜3グループいて

チェンジしていくステージで

人気の上手いバンドが出る時間帯が

盛り上がる感じで

バンドのメンバー目当ての女の子も多くて

今のライブハウスっぽい感じですね

このVIVAオオサマには

人気グループがいました

一つはフィリピンバンド

そしてもう一つは、

「クリスタルキング」

そう、あの「大都会」のクリスタルキングです

当時から、めっちゃカッコよかったです

当時福岡には

西日本の上手いバンドが集結して

しのぎを削っている感じでしたが

群を抜いて上手かったすね〜

クリキン聴きに行ってましたもん

オリジナル曲の

「ライジングサン」とか大好きでした

1976年テイチクレコードからリリースしたデビューシングル

クリスタルキングのダンスチューン、カバー曲の

「カモンハッスルベイビー」

B面の「ライジングサン」はオリジンルで

美しいメロディーの名曲です

このシングル盤のプロモーションを

テイチクさんに頼まれてしばらくやっていました、

確か一度、ギターのみっちゃんと

レコード店周りをしたような記憶があります

 

そして、VIVAオオサマと言えば

専属ダンサーがいたんです

ソウルサンシャイン

このメンバーに

あの男がおるとです

僕を始め多くの人を巻き込み

多くの人の人生を変え

そして導いてくれた

あの男ですよ!