黒猫は西欧では不吉なものとして忌み嫌われていたらしい。
そう言えば魔女に黒猫は付きものだ。
 
僕は黒猫と二度出会ったことがある。
最初は高校2年の時だった。
 
学校の近くの道端にダンボールに入れられて捨てられていた子猫が黒猫だった。
覗き込むと衰弱しているのか、力のない声で鳴いていた。
このまま放置しておくと死ぬかもしれない、と思って部屋に持ち帰った。
部屋といっても学生寮の個室だ。
猫を飼うことは、当然できない。
舎監に見つかったら大変だ。
 
それでも2、3日したら元気になるかも、と思って部屋で餌や水をやった。
昼間は授業があるので鍵をかけた部屋に閉じ込めることになるが、仕方がない。
でもひとりでおとなしくしているようだった。
 
ある晩、寝ていると黒猫がしつこくベッドに乗ってきて、僕は寝ぼけたまま反射的に払いのけてしまった。
若者は睡眠に弱い。
朝起きて見たら黒猫はまだ眠っていた。
 
授業が終わり部屋に戻ると黒猫はまだ寝ていた。
よく見ると様子がおかしい。
起き上がることができなかった。

 

僕は昨夜黒猫をベッドから払いのけてしまったことを思い出した。
きっと、壁か床か、打ちどころが悪かったのかもしれない。
「そうに違いない。なんてことをしたんだ」
激しく後悔しながら、すぐに猫を抱えて寮の友人と二人で動物病院へ連れて行った。
 
心配そうに覗き込む僕らに、診察した獣医の先生が言った。
「ダメなようだ」
えっ、と言葉を飲み込んだ僕らに先生が言った。
「苦しまないようにしてあげるから」
 
先生はお金を取らなかった。
 
 
二度目に黒猫に出会ったのは中年になってからだ。
自宅の近くの信号がある交差点だった。
夜でまわりは暗く、雨が降っていて僕は黒い傘をさしていた。
信号が青になり、横断歩道へ踏み出そうとしたその時、背後から何かが前方の横断歩道へ飛び出した。
黒猫だった。
思わず立ち止まった僕の鼻先に、巨大なダンプカーが突然現れて急ブレーキをかけた。
猫に驚いたダンプが急ブレーキをかけたのだ。
そのまま歩きだしていたら、僕は確実に轢かれるところだった。
黒猫のおかげで間一髪助かった。

かわいそうに黒猫は轢かれたに違いない。
 
ダンプがいなくなって暗い道路を覗き込んで見渡した。
不思議なことに猫は消えてしまって、どこにも居なかった。
 
 
夏目漱石の処女作「吾輩は猫である」のモデルは、漱石夫妻がかわいがっていた迷い込んだ黒猫だそうだ。
小説が売れたと漱石は感謝していたらしい。
西欧と違って日本では黒猫は幸せを運ぶ「福猫」とされている。

 

K子に待望の子供が誕生した。
男の子だ。
タダシと名付けた。

タダシはみるみる成長し、中学生になった。
塾通いで帰宅が遅くなる息子に、K子は言った。
「夜はあぶないから帰りは気をつけてね」
K子は昔怖い思いをしたことを息子に話した。

それは高校時代のことで、部活の帰りで日が暮れていた。
一人で歩いているとつけられている気がした。
見ると知らない老人だった。
そんなことが何度かあって怖くなった。

ある日部活の帰りに公園を通りかかったら、見知らぬ男がついてきた。
若い男だった。
逃げようと走ったら転んでしまい、男に追いつかれた。
見上げると若い男は手にナイフを持っていた。

すると突然老人が現れて、若い男と揉み合いになった。
K子は起き上がると全速力で走って逃げた。
家に帰ってブルブルと震えた。

若い男はその後逮捕されたようだ。
老人はナイフで刺されて死んだらしい。
知らない名前の人だった。
K子にとってトラウマになる恐ろしい体験だった。
 

そんな話を息子にして一月も経たないある日、タダシが突然行方不明になった。
あの公園にカバンを落としたまま霧のように消えてしまった。
警察が懸命に捜索したが行方はわからなかった。


タダシが気がつくとそこは公園だった。
まだ早朝で人がいなかった。
わけがわからずに家に帰った。
すると自宅があった場所には違う家が建っていた。
近所も見知らぬ人ばかりだ。
学校へ行ってみたが、先生も生徒も知らない人ばかりだった。

タダシは養護施設で育った。
18歳になると施設を出て働いた。
身寄りもなく、戸籍もないのでろくな仕事にはつけなかった。
偽名を名乗った。
仕事が終わり、日が暮れると公園へ行くようになった。
不審者と間違われないよう、目立たないようにした。

ある晩、公園で女子高生と男を見かけた。
男が女の子を追いかけている。
「これだ」、と思って夢中で飛び出した。
男と揉み合いになり、気がついたら左胸にナイフが刺さっていた。
気が遠くなりながらナイフを抜こうと柄を握った手は皺だらけだった。

 

俺は28歳の宇宙飛行士、独身だ。
俺は惑星探査チームのミッションに参加した。
地球から約16光年離れたわし座のアルタイル系の惑星に行く。
「神舟45号」という地球最新鋭の超高速宇宙船を使うので、片道約20年の旅だ。
帰還するのに宇宙船時間で約40年強かかるが、コールドスリープ技術で乗員のテロメア長は短くならない。
つまり肉体はほとんど老化しないまま帰還できる。

宇宙船と地球の経過時間は違う。
アインシュタインの相対性理論だ。
帰還する地球の時間は約20年先となる。
つまり肉体は老化しないが地球時間で20年先の未来へ帰還することになる。
帰還すると俺の地球年齢は48歳だ。
飛行中は眠っているので、ミッションに要する時間は感覚的にはわずか数ヶ月だが、俺は地球上では20年間不在だったことになる。
つまり人生の20年を失う。
そのため通常の賃金の他に20年分の年収が補償されることになっていた。


ミッションは成功し、俺は無事帰還した。
同級生が帰還祝いの会を開いてくれたが、みんなジジイ、ババアになっていた。
好きだったあの子も熟女になっている。

付き合っていた彼女も今は結婚して母親になっていた。
子供がいる夫婦は珍しくなっていたので、彼女はラッキーだ。
仕方がない。若い彼女を探すとしよう。
弟が中年になっていたことだけには慣れなかった。

 

スマホもクレジットカードもなくなっていた。
代わりに体に埋め込んだ生体チップで通信や認証をすべて行うらしい。
住民情報、銀行口座、運転免許証、健康保険証など個人情報はすべてマイナンバーチップに収納されている。
国民は生後6ヶ月になるとチップを埋め込まなければならない。
俺も来週チップを埋め込んでもらうことになっている。

大金をかけてカスタムした俺の愛車はもう公道を走れなくなっていた。
ガソリンスタンドがどこにもないからだ。
仕方がないので新しい車を買うまでしばらくUberで自動運転のタクシーを使うことにした。

俺の大好きなタバコもどこにも売っていない。
でも肺癌は無くなっていなかった。
今でも死因の上位だ。

東京の街の様子も変わった。
店の看板が漢字だらけになっていた。
腹が減ったので「麦当劳」という看板の店に入った。
「巨无霸」というパテが2枚入ったハンバーガーを注文し、代金の90元を払ったら「謝謝」と言われた。
パッケージをよく見たらパテは人造肉だった。

これから俺は同世代の友人や知人よりも20年くらい長く生きなければならない。
たった20年だけど俺は随分損をした気分になった。
 

最近急に交通事故が増えたようだ。
毎日TVで交通事故死のニュースばかり放送するので俺は怖くなった。
安全のため外出時には徒歩でもヘルメットとゴーグルの着用が義務付けられるらしい。
人の顔が見えなくなった。
隣の奥さんは事故が怖くて外出しなくなった。
学校は休校し、修学旅行も無くなった。
国もステイホームを推奨している。

すると今までなかった画期的な新型自動車が突然登場した。
早く輸入しろと国民は政府に要求した。

安全性が高いと評判の新型自動車を、国が100兆円かけて大量導入した。
タダだと言われているが、俺たちの税金が使われている。
欠陥がないか確認する型式認定試験は終わっていないが、国民の要求に忖度した政府は特例承認を実施した。
承認を遅らせたら、次の選挙で落選してしまうからだ。
もし欠陥が原因で死んだらメーカーではなく国が補償するという。
不思議な話だ。

早く納車して欲しい国民のために、大規模納車会場が設けられた。
予約が殺到し、国民の大半が乗り換えた。
みんな交通事故死が死ぬほど怖いからだ。

半年後、交通事故死が10倍に増え、交通事故件数は100倍に増加した。

 

交通事故専門家のコメント
A氏「事故1件あたりの死亡率は以前の10分の1。つまり死亡を90%抑制できている」

B氏「もし新型車を導入しなかったら、今頃40万人は死んでいただろう」

C氏「事故予防には効かないが、事故による怪我の重症化予防には役に立つ」

D氏「事故を起こすと重篤な怪我をしやすい高齢者は是非乗り換えを」

E氏「事故が増えたのは国民の気の緩みが原因だ」

F氏「事故を減らすには外出を制限すべき。県境を跨ぐ移動も自粛しろ」

G氏「事故を予防するため車間距離を100m取るべきだ」

H氏「新型以外は高速道路を走行禁止にしろ」

I氏「若者が夜間外出するから事故が増えている。特に歌舞伎町近辺が危ない」

J氏「夜9時以降は運転禁止にすべきだ」

K氏「緊急事態だからガソリンスタンドの営業をやめろ」

L氏「新型車は2類の修理工場でしか修理してはいけない。2類の工場が逼迫したら運転を制限しろ」
 

M氏「無症状でも故障していて事故を起こす可能性がある。アラームセンサーが少しでも反応したら走行禁止。必ず整備工場に入庫を」

N氏「半年毎に新型に乗り換えを」

O氏「最新型のみ運転を許可するグリーンパス・パッケージの導入を」

政治家A「新型車の輸入とデリバリーが遅いのは政府の怠慢だ!」

政治家B「1日100万台導入を!」

政治家C「2類の修理工場には国が補助金を支給します。リフトを確保すれば空きでも支払います。整備士が足りなくて空きのまま修理できなくても構いません」

整備士A「うちのような2類修理工場は忙しくて大変だ」

整備士B「うちのような町工場では新型車はとても修理はできない。でも手数料をはずむなら新型車の販売には協力します」


俺の田舎の祖父が新型車で交通事故死をしてしまった。
かかりつけの自動車整備工場の整備士が、欠陥の強い疑いありと報告書を書いてくれたが、欠陥のせいなのかどうか因果関係は不明だと国に言われてしまったので補償は出なかった。
老人だから運転を誤ったのだろうと言われた。
でも若者も死んでいる。

 

新型車で交通事故死しても海外では自動車保険金を支払わない保険会社が出てきた。
型式承認されていない新型車への乗り換えは任意だから自己責任だそうだ。
最近俺の新型車もしょっちゅう故障するが、修理代はもちろん自費だ。
だからもうすぐ4台目の新型に乗り換える。
新型車のメーカーは史上最高の収益をあげている。


おかしなことに、どれだけ新型車が普及しても事故も事故死もちっとも減らなかった。
でも誰も疑問には思わない。
それによくよく調べたら、新型車に乗り換えなくても交通事故死の確率は実は極めて低かった。
しかも死んだのは平均年齢80歳以上だ。
それに運転免許を持たない子供にも何故か新型車を納車すると言う。

以前のクルマは故障もしない健康体だったから乗り換えなくてもよかったかな、とちょっとだけ頭の片隅で思った。
でも旧型車に乗っていたら、お前のせいで危険だと周りから批判されるので誰にも言えない。
「反新型車」とレッテルを貼られ、TVで言わない意見はデマだと言われてしまう。

もうすぐ緊急時には法律がなくても政府が国民の外出や運転を禁止することが出来る憲法改正がおこなわれる。
なんかロシアや中国のような国になって来た。
でも北朝鮮では交通事故が1件もないらしいから仕方がない。
以前は嘘だと思っていたが、皆意外と大丈夫そうだし、新型車がないのが逆に良かったのかもしれない。
今日も元気にミサイルを発射している。

 

巨大UFOが突然現れた。
世界はパニックになった。
米軍、ロシア軍、中国軍などが戦闘機を出撃させてミサイル攻撃を試みたが、ことごとくUFOのレーザー兵器に撃墜された。
核ミサイルも発射したがやはり撃墜された。
人類は無力だった。

やがて宇宙人が地上に降臨し、片っ端から殺戮と捕食の限りを尽くした。
地球最後の日が来たと誰もが思った。

攻撃された都市の人間は殆ど殺戮されたが、極一部の人間が生き残った。
何故生存できたのか、地球防衛軍は生存者を集めて調査を開始した。

すると驚くべきことに、生存者の多くは新型コロナの入院患者だった。
地球防衛軍の司令官が言った。
「わかった。生存の鍵は新型コロナウイルスだ」

地球防衛軍は決死隊を編成した。
新型コロナウイルスを弾に込めた新兵器を作った。
「隊長、隊員も危険ではないですか?」
「大丈夫だ。全員ワクチンを3回接種してマスクをするんだ」

出撃の時が来た。
UFOはエンジンの熱を感知してレーザー攻撃をして来るのでモーターグライダーで攻撃することにした。
上空に上がったらモーターを止めて滑空しUFOに近づくのだ。
 

思惑どおりグライダーはレーザー攻撃を受けることなく巨大UFOの上に到着し、決死隊は次々と換気口から機内に侵入した。
そしてマスクをした隊員たちは一斉に持参した新兵器を撃ちまくった。

しかし新兵器はたいして効かなかった。
ウイルスがすでに弱毒化していたからだ。
しかも宇宙人はイベルメクチンやヒドロキシクロロキンを持っていた。地球ではコロナウイルスに効かないと宣伝されているクスリだ。
無事帰還した隊員たちも全員マスクをしてワクチンを3回接種していたのに感染してしまった。

それを見た司令官は言った。
「間違えた。使うのはワクチンの方だった」

 

俺は双子だ。
小さい頃から兄とそっくりだと言われる。
確かに似ているが性格は違う。
兄のタカシはおとなしい。
母が「窓ガラス割ったのはタダシ?」と聞くので俺が違うと言うと「じゃあタカシね!」
と言っていつも叱られるのは兄だった。
兄は「違う」と言えないからだ。
ずっと兄は弟の俺の不始末のツケを払わされてきた。
そして親も区別がつかないほど二人は似ていた。

現在俺たちはオレオレ詐欺をしている。
もちろん危ない橋を渡るのは兄の仕事だ。
俺は常に安全なところにいる。
兄は俺に言われると嫌だとは言えないのだ。
昔から性格は変わらない。

今回俺が目をつけたのは一人暮らしの大金持ちの老人だった。
昨日の朝電話をかけて翌日までに現金を用意するように頼んだ。
不審に思われた様子はなかった。
でも俺は用心深い。
翌日金を取りに行かせると言って電話を切った。
すぐに金を取りに行かないのは警察に通報しないか確認するためだ。
俺は兄に様子を見に行かせた。
1日中ずっと部屋で兄の帰りを待った。

 

夜になってやっと兄が戻ってきた。
「遅かったね」
「ごめん、今日封切りの映画を見てきたんだ」
と兄は映画のパンフレットと半券を見せた。
「そうか。で、どうだった?」
「大丈夫。変わった様子はなかった。それに本当に一人でほかに人はいない」
「じゃあ、明日金を取りに行ってくれ」
「わかった」
と言って兄は帰っていった。
それが昨日の話だ。

今朝起きると俺は昼前に駅前の喫茶店に行った。
もうすぐ兄が金を取りに行く時間だ。
俺はレシートをもらって、それからショッピングモールを半日ぶらぶらした。
防犯カメラに写ってアリバイを作るためだ。
俺は用心深いのだ。
もし兄が捕まっても俺は気にしない。

夕方になったので俺はアパートに帰った。
そろそろ兄が金を持ってくるだろう。
1時間ほど待ったらドアをノックする音がした。
やっと来たか、と思ってドアを開けるとそこに立っていたのは刑事だった。
「タケダ タダシさん?」
「はいそうですが」と言うと、刑事の背後から知らない男が出てきて言った。
「刑事さん、間違いありません。この男です!」
「えっ?」
「あなたを逮捕します」と言っていきなり手錠をかけられた。
俺は「ちょっと」と言いながら逮捕状を見ると、そこには「強盗殺人の疑い」と書かれていた。

 

あとで被害者宅の防犯カメラの映像を見せられた。
そこには「俺」が写っていた。
しかもそれは俺が逮捕された日の前日の映像だった。

俺にはアリバイがない。

 

「キャー!」っとK子が大声で叫んだ。
「虫がいる!」
僕も虫が嫌いだ。
特に蟻、蠅、蚊、蛾、毛虫など家の中の虫は子供の頃から見つけたらすぐ殺すようにしている。
「どれどれ」
と僕はK子が指差す方を見た。
よく見たら虫ではなかった。小さな蜘蛛だった。
「早く殺してよ」
僕は殺さずに蜘蛛をつまんでベランダへ捨てた。
「もう大丈夫」

僕は蜘蛛は殺さない。
子供の頃祖母に言われたからだ。
「タダシ、蜘蛛は殺しちゃ駄目よ。蜘蛛は害虫を食べてくれるんだから」

K子は僕の婚約者だ。
高校の美術部で一緒だった。
彼女は美大を出てアニメーション制作会社で働いている。
僕は美大には行かずに、大学卒業後出版社へ入って今は美術書の編集をしている。
僕たちは来月結婚する。

 

二人で揃って出勤した。
僕らの会社は近い。
交差点で「じゃあ、またあとで」と手を振って別れた。
歩き出すと、背後で「ドーン」と大きな音がして悲鳴が上がった。
振り返った僕は走り出した。
交差点にダンプが突っ込んで赤い血が飛び散っていた。
「そんな!」
僕は目の前が真っ暗になった。

本当に真っ暗な闇の中だ。
すると闇から黒い影が出てきた。
よく見ると蜘蛛だった。
「助けてくれてありがとう。お礼に願いを聞いてあげるわ」
そういうと僕に小さなガラス玉をくれた。
僕はそのガラス玉を握りしめて祈った。
また目の前が真っ暗になった。


僕は目が覚めた。
K子の顔が見えた。
「早く起きないと遅刻するわよ」と言って笑った。
「夢だったのか?」
と思いながら手のひらを開けるとそこにはガラス玉があった。
交差点で別れずに彼女の会社の前まで送って
「今夜は外でご飯を食べよう。ここまで迎えに来るから」と彼女に伝えて別れた。

 

仕事が終わって彼女の会社へと向かう。
すると様子が変だ。
人だかりがして、その先に火の手が上がって黒い煙がもうもうと舞い上がっていた。
野次馬の誰かが言った。
「放火されたらしい」
燃えていたのはK子の会社が入ったビルだった。
やがて消防車のサイレンの音が聞こえてきた。
僕はその場にへたれ込むと、ポケットからガラス玉を出してまた強く握った。
 

僕は喫茶店にいた。
そこにK子が笑いながらやってきた。
「おまたせ。久しぶり!」
「え?」
「仕事はどう?」
「まあ、あまり変わらないよ。君のアニメの仕事はどう?」
「実は私先月会社を辞めたの。今度結婚することになって」
「え?」
「だから今日はタダシにそのことを報告しようと思って呼んだのよ」
「結婚式来てくれるよね?」
「ああ、もちろん行くさ・・。おめでとう」
「ありがとう。よかった。タダシには絶対来てもらいたかったから」
「じゃあ私行くね」
「うん」
そう言うとK子は笑顔で出ていった。
僕は彼女の後ろ姿を見送りながら、またポケットに手を突っ込んだ。


「おかえり」
玄関を開けるとK子が言った。
「ただいま」
「疲れたでしょう。ご飯にする?それとも先にお風呂入る」
「お腹すいたからご飯食べようかな」
「わかった」と言う妻の顔を見たら顔色が悪かった。
「具合悪いの?」
「うん、ちょっと昨日から体調が悪いの。少し休めば治るから」
僕は胸騒ぎがして「明日病院へ行こう」と言った。
精密検査をする必要があると言われて彼女は数日間検査入院することになった。
「大丈夫よ。少し休養になるわ」
「うん、そうだね。また明日会社の帰りに寄るから」

 

翌日外での打ち合わせが終わると同行していた同僚のM子が僕に言った。
「あーお腹すいた。タケダ係長、ご飯行きましょうよ」
「お疲れ様。悪いけど行くところがあるんだ」
「おうちにご飯ないんでしょう。たまにはいいじゃない?」
「う〜ん。じゃあ、ちょっとだけ」
僕は早く切り上げようと思ったがそうはならなかった。
M子と別れたら病院の面会時間はとっくに終わっていた。

翌日仕事帰りに病院へ行った。
「ごめん、昨日は残業で遅くなってしまって」
「ううん、いいのよ。お疲れ様」とK子がやつれた顔で言った。
すると主治医が病室にやってきて
「タケダさん、ちょっとこちらへ」と僕を別室へ案内した。

K子は末期がんだった。
「先生、余命は?」
「申し上げにくいがあと1ヶ月くらいかと」
「そんな!」

K子の葬儀が終わって、僕はやっと悟った。
「そうか」
ポケットのガラス玉を握りしめた。
 

そこは高校の美術室の前だった。
同じクラスのK子がやってきて
「タケダ君、美術好きなんでしょ。一緒に美術部へ入ろうよ」と誘った。
僕は答えた。
「ごめん。吹奏楽部に入るんだ」
「な〜んだ。残念ね。じゃあ頑張ってね」
と明るい顔でK子は言うと美術室へ入って行った。
K子の後ろ姿を見ながら涙が出た。
「さよなら・・・」
心のなかでそう言うと、ポケットの中で握りしめていたガラス玉が割れる音がした。
これでやっと正解だったようだ。
手を開いてみたらそれはガラス玉ではなく、小さな蜘蛛の死骸だった。

 

夜中にふと目が覚めた。
眼をうっすらと開くと暗闇に黒い人影のようなシルエットが立っていた。
僕はドキッとして「誰!?」と聞いた。
「俺は救済者だ」
「救済者?僕に何の用だ」

すると影は言った。
「お前はもうすぐ死ぬ」
「死にたくなければお前の魂を俺に売れ。そうすればお前はもっと長生きできる」

それを聞いて僕はがくがく震えた。
そのシルエットの頭には角のようなものが生えていて背中には蝙蝠の羽のようなものが見えた。

「ち、ちょっと待ってください」
「死にたいのかね?」
「いや少し考えたいのでしばらく時間をください」
「わかった。でも時間はあまりないぞ」
と言ってその影は消えてしまった。
僕はがくがくと朝まで震え続けた。

 

次の日の夜中また目が覚めた。
どきりとして暗闇のほうを見ると、今度は白い人影のようなシルエットが立っていた。
「誰?」
「私は使いの者です」
「僕に何の用ですか?」
「魂を売ってはいけません。売った相手の力になるだけです」と優しい声で囁いた。

「わかりました、売りません」
というとその白い影は背中の翼のようなものを広げて消えてしまった。


翌日の夜中、また黒い影がやってきた。
僕は震えながら「やはり魂は売りません。ごめんなさい」と言うと、黒い影は「チェッ、そうか」と言ってあっさり消えてしまった。


‪翌朝僕は通学しながら考えた。‬
死後の世界ってどういうのだろう。
魂を売るとやはり地獄に落ちるのかな。
天国は素晴らしいところなのかな。
想像するだけでもちろんわかるはずはなかった。

横断歩道の信号が青に変わって渡り始めると、そこに信号無視をしたダンプが突っ込んできた。
僕は巨大なタイヤに踏みつぶされ、意識が遠のく中で一瞬だけ死後の世界が見えた。
そこは何もない虚無だった。天国も地獄もなかった。
 

 

「ルシファー、また私の勝ちね」と白い影。
「ガブリエルはずるいなあ、いつも邪魔をするんだから」と黒い影。
二人はいつもオセロゲームをしている。
白い石と黒い石は人間から買った魂だ。


「私は嘘は言ってないわよ。人間が勝手に誤解してくれるだけ」
「俺だって。寿命を延ばしてやろうというのに断るやつの気がしれないよ」
「しょうがないわ。今は無宗教の人間が増えたから魂もなかなか買えないわよね」
「だいたい神を信じない人間が天国と地獄は信じてるってどうよ?」

「石は長持ちしないからこのゲームもいつまでできるやら。ゲームができなくなったら退屈で死んでしまうぜ」
「あなたの石が足りなくなったら、高値で売ってあげるわ」
「いつもずるいなあ」
「じゃあもう一番やりましょう」と言って二人は石を盤から集め始めた。
 

人間の神経の信号伝達速度をご存じだろうか?
神経細胞(ニューロン)内部の伝達速度は速いところで秒速120mだ。
音速が秒速340m、電線を流れる電流がほぼ光速の秒速30万kmであることを考えると極めて遅い。
神経細胞間(シナプス)における伝達にいたっては電気信号ではなくて化学物質による伝達だから更に絶望的に遅い。
つまり天才や超一流スポーツ選手であってもコンピュータの計算速度やロボットの運動速度には到底かなわないということだ。


俺はこれに着目した。
もし人間の神経信号伝達速度を高められればスーパーマンになれるのではないか?
例えば脳内の伝達速度を早くできれば知性や判断が飛躍的に向上するのではないか?
例えば筋肉への信号が速まれば運動能力が高まるのではないか?
時速160kmの野球のボールを軽々と打ち返したり、短距離走の世界記録を塗りかえたり、はたまたピアノやギターの演奏で超絶速弾きが可能になるのではないか?
そんな仮説が頭を離れず俺は研究に没頭した。
 

そして20年以上費やしてその方法をついに開発したのだ。
理論的には可能だがまだ実証はされていない。
別に身体を改造するわけではない。
神経伝達速度を速くするだけだ。
光速とはいかないが計算上通常の10倍程度は早まるはずだ。
言ってみれば「神経のサイボーグ」だ。
俺は自分の身体で実証するという誘惑に勝てなかった。
目が覚めたらスーパーマンになっているはずだ。


気がついたら周りには何の変化もなかった。
俺はひとつひとつ仮説を検証することにした。
まず運動能力の向上だが、これはうまくいかなかった。
確かに体の反射神経や運動速度は速くなったが、そもそも野球や楽器のスキルのない50歳の俺がそこまで上達するはずもなかった。
単に練習時間が10倍に増えたようなものだ。

じゃあ、頭脳はどうか?
これは飛躍的に向上が進んだ。なにせ10倍の速度で本を読んで学習することができるのだ。
たった1日で何十冊も読破することができた。
俺の研究はこれから飛躍的な速度で進むだろう。
どんな課題でも今までの10倍のスピードで片づけることができる。
天才になった気分だ。

 

困ったこともあった。
まずは睡眠だ。
とても8時間も眠れない。
なんせ俺の8時間は80時間なのだ。
強い睡眠薬なしにはそんなに長い時間眠れるはずもなかった。
しかし脳の機能を維持するためには一定時間以上の睡眠は不可欠だ。

次は食事だ。
猛烈に腹が減る。俺の一日は240時間に相当するのだから食事は三度ではとても足りない。
四六時中腹が減って四六時中食事をするようになった。
1日10食以上食べるようになった。
特に脳は大量のブドウ糖を消費するから糖質を大量に摂取しなければならない。
この結果米や麺類、パンなどを大量に消費した。食費で破産しそうだ。
それにこのまま大量の糖質を摂取し続けると糖尿病にならないか心配だ。

娯楽に飽きた。
映画のビデオを10倍速で視聴すると1日で何十本も観れてしまう。
早晩見るものも無くなって退屈極まりない。
本や雑誌だってあっという間に読み終わってしまう。

早口になってしまった。
早口すぎて人になかなか伝わらないが、人と会う機会は少ないのでまあよい。

心拍数が速くなった。
血圧も上がり動悸もするようになったが、これはそれだけ身体を酷使しているのだから仕方がない。

 

2年経ち俺の研究は飛躍的なスピードで進んだ。ノーベル賞候補になる日も近い。
しかし最近物忘れが酷くなった。

3年目に物忘れがあまりにひどくなったのでCTで脳を撮影してみた。
すると俺の脳は明らかに委縮していた。
「これは!?」

アルツハイマー症だった。
俺の脳はたった3年で80歳の脳に老化していた。
たしかに常人の10倍のスピードのスーパーマンにはなったが、3年で30年分脳を酷使してしまったせいだ。

しまった。
これから若返りの研究を開始して果たして間に合うだろうか?

 

僕は天涯孤独だ。
幼い時に両親を失い施設で育った。
それでも高校を卒業すると奨学金を得て大学へ入った。
そして僕にも初めて親友と彼女ができた。
同じサークルのK太とM子だ。

しかしM子と些細なことで喧嘩をし、先週ついに別れてしまった。
初めての恋愛と失恋。
もともと孤独だったので平気さ、と自分に言い聞かせたが痛手は大きかった。
そんな僕を見かねてK太は僕をスキーに誘った。
優しいやつだ。
僕はスキーはあまり好きではなかったが、K太の気持ちを考えて行くことにした。

安い夜行のツアーバスに二人で乗った。
バスでうとうとしていると突然大きな衝撃が襲った。
体を投げ出され、痛みにうめきながらK太を見た。
「おい、大丈夫か」

後でわかったが運転手が居眠りをして道路を飛び出して転落したのだった。
僕は奇跡的に軽症だった。
でも生き残ったのは僕一人だった。
また天涯孤独に戻ったのだ。

 

K太の葬儀が行われた。
僕は線香をあげると葬儀場をそそくさと離れた。
その場に居るのがいたたまれなかったのだ。
その場を離れ、ふと振り返ると葬儀場へ向かうM子の姿が見えた。
彼女は泣いていた。
僕は声をかけることもできず近所をぶらぶらしてからアパートへ帰った。
やりきれなくてすぐには帰りたくなかった。

アパートの近くに来ると、僕の部屋の周りに数人の人がいるのが見えた。
近づくと運送屋が僕の部屋から荷物を運び出している。
大家の姿も見えた。
「おい、何をしているんだ」
と声をかけたがまるで僕の声が聞こえないように作業を続けている。


するとM子がこちらに歩いて来ているのが見えた。
彼女はまだ泣いていた。

そうか、彼女の泣き顔を見て僕はやっと理解した。
急に周りが真っ暗になった。