>「グーテンベルクの銀河系」の目的


「人間の感覚や機能が拡張されるときにも、また逆に抑制されるときも、ともに「閉鎖」、「完結」もしくは均衡へのやみがたい衝動が発生する」8


>その最初は文字であり、次は印刷技術である、しかしその先は何か

>ダーウィンが進化について考えたきっかけ。それはあらゆる生物が示しているその適応能力とそれを実現するための構造の完璧さにある


「変異が生じる原因としてナチュラリストがいつもあげるのは、気候や食物といった外的条件である。 (略) しかし、たとえばキツツキの形態を見て、その足、尾羽、くちばし、舌などが、樹皮の下に潜む虫を捕まえることにみごとに適応している事実を、外的条件だけで説明することには無理がある」(18)


>ではそれはどのようにしてなし遂げられたのだろうか。彼はここで人間が「微細な変化を人為的に少しずつ選抜する」品種改良によって新たな品種を産み出していることに手がかりを見いだす。


「一般にナチュラリストは、飼育栽培下にある生物の研究を無視しがちである。しかしこれこそきわめて価値の高い研究である」(20)


>この人為にかわって自然界でそれを促すのは「生存闘争」である。


「どの生物種でも、生き残れる以上の数の子どもが生まれてくる。しかもその結果として、生存闘争が繰り返し起こる。こうした状況下では、自分自身の生存にとって少しでも利益になるような変異をそなえた個体は、たとえそれがいかに小さな変異であっても、複雑で変化しやすい環境下において生き残る可能性が高くなるはずであり、自然によって選抜されることになる」(21)


>この自然による選抜によって生命の驚くべき巧みさと多様さが生まれると、ダーウィンは「種の起源」において実例をもって示している


>精神はまず身体によってその観念をあたえられる、このことの意味は何か


「精神が非十全な観念をもっているかぎり、精神のはたらきは当然受動的である」(188)


>このことは、非十全がその原因が私のうちに部分的でしかない場合、わたしたちの本性から生じるということから導かれる。ではそれは具体的にどのようことだろうか。


「受動は、ただ否定を含むあるものが属する限りの精神にのみ関係がある。すなわち、精神が他によらずそれ自身だけでは決して明白に知覚されえないような自然の一部としてみなされる限り、そのような精神に関係がある」(188)


>人間は身体(自然)という十全に把握できない存在とかかわる限り、人間の精神には否定(受動)が含まれている、ということである。精神はここでは現実に有限である。


「精神が非十全的な観念をもついう理由だけから、精神のはたらきは受動的になる」(188)


>したがって、スピノザにおいて精神は根本において受動的存在と見なされている。

>上記の言葉はすでに引用された言葉である。しかし、重要なのでここに再掲し、詳しく吟味したい。第三部定理1にもこれに類する言葉が見出される

「われわれの精神は、ある点ではたらきをなす。ある点でははたらきをうける。すなわち、精神に十全な観念があるかぎり、精神は必然的にみずから活動するが、また精神が非十全な観念をもつかぎり、必然的にはたらきをうける」(178)

>この言葉が意味するところは、完全その人にとって自明な観念が存在しているなら、彼は十分にさまざまな外的苦難をのこりえることができる(かもしれない)、ということを示している。逆に非十全な観念においては、私たちは何ものかに支配され、自分以外のものによって影響されている、ということができる。では改めて、十全とは何か、非十全とは何か、について確認しておこう。第三部定義はそれを次のように述べている

「私が十全な原因と呼ぶのは、その結果が当の原因だけから明白に知覚されうるような原因のことである。それに対して、非十全なあるいは部分的な原因というのは、その結果がたんに当の原因だけによっては把握されないような原因をいう」(176)

>また原因の違いによる感情の違いについては次のように述べられている。


「感情とは、身体そのものの活動力を増大させたり減少させたり、あるいは促したりまた抑えたりするような身体の変様であると同時に、そのような変様の観念であると、私は理解する。こうして、もし、われわれがこのような変様のどれかの十全な原因でありうるならば、その場合感情を、私は「能動」と解し、それ以外の場合「受動」と解する」(176)

>すなわち、十全な観念はその原因・理由があますところなく把握されている観念であり、それは能動的変化を感情にもたらす、ということである。逆に受動的であるとは、十全な観念・根拠が内にないことを示している

>スピノザのエチカによれば「身体には、精神の思惟活動を決定する能力はない」(179)ということが原則としてある。ここで言われていることは思惟の活動は決して身体によって説明されない、ということである。

 この意味で、第一に精神と身体は別々のものである、ということをまず確認しなければならない。 これはたとえば、身体の活動によって数学の法則や三段論法が変わるわけではないということであり、人間の精神活動には身体とは別の、思惟能力が存在している、ということである。


「思惟活動のあらゆる様態は、思惟するものであるかぎりの神、しかもそれ以外の属性によっては決して説明されないような神を原因としている。従って、精神の思索活動を決定するものは、思惟の様態であって、延長の様態、言い換えるならば、それは身体ではない」(180)


>しかし、すべての精神が確固として何ものにも左右されずに、独立して存在しているのか、といえば決してそうとは言い切れない。例えば研究においても、その見通しがはっきりとイメージできれば(十全な観念として)、人は精神において能動的(積極的)になることができるし、反対に見通しがはっきりしなければ(非十全な観念)、研究もただやみくもに行われることはあったとしても、決して安定して確固とした歩み生み出すことはできないし、さまざまな意見に影響されて支離滅裂になりがちである。


「我々の精神は、ある点でははたらきをなす。ある点でははたらきを受ける。すなわち、精神に十全な観念があるかぎり、精神は必然的にみずから活動するが、また精神が非十全な観念をもつかぎり、必然的にはたらきをうける」(178)


>また、同様に次のようにも言われている

「精神の能動は、ただ十全な観念のみから生ずる。しかし、精神の受動は非十全な観念のみに依存する」(187)


>だが、精神がその思惟の内容において身体と区別されるとしても、精神が身体を自由にできるわけではない。分かっていてもだれもがうまくボールを投げられるわけでもないし、意識して歩いているわけでも、感覚を自由に創り出すことができるわけでもない。これは身体が思惟とは別に延長(物)として存在していることによっている。

 しかし、経験はまた身体が疲れれば、精神の活動も不活発になること、を示している。つまり、身体と精神は別々のものでありながら、何らかの深いつながりを持ち、精神は身体のすべて把握しているわけでないことは明らかである。これをスピノザは次のように述べている

「精神と身体は同一のものであって、それがあるときは思惟の属性のもとで、またあるときは延長の属性のもとで考えられる。(略) ともかくものの秩序あるいは連結は一つであり、したがってわれわれの身体の能動と受動の秩序は、本来、精神の能動と受動の秩序と同時に生じている」(180)

>具体的には

「身体が眠りにおちてやすらいでいるあいだは、同時に精神も意識が不活発になって、目覚めているときのような思考をはたらかせる力をもたない」(182)

>従ってこのような事実から。スピノザは人間の決意は決して自由になされるのでない、という自由意志の否定をみちびきだしている

「疑いもなく明らかなことは、精神の決意ならびに衝動と、身体の決定とは本性上同時に起こるのであり、あるいはむしを同一のものであって、それが思惟の属性のもとて見られ、それだけで説明されるとき、われわれは決意と呼び、またそれが延長の属性のもとでみられ、運動と静止の法則から演繹されるとき、決定と呼ぶのである」(185)

>いずれにしてもスピノザは、人はその自らの行為の原因を知り尽くしているわけでも、意志のもとに統べているわけではない、と考えている。人間の自由意志とは一つの虚構であり、そう自分だけが思っているにすぎない、ということである。

>この言葉は第4部定理35「人間が理性の導きに従って生活しているかぎり、彼らは本性上、常に一致する」(341)に関係する言葉として掲げられた。これは一見すると、争いの絶えない現実からみれば、遠くかけはなれた絵空事のように思えるかもしれない。しかし、スピノザはそれは決してきれい事ではなく、人間の本当の姿として語っている。


「たったいまわれわれの明示したことは、経験そのものも毎日、そして非常に多くの動かしがたい証拠によって、実証していることである。だから、ほとんど全ての人びとが口々に「人間は人間にとって神である」といっているほどである。ところが人間が理性に従って生活することは、まれである。むしろ彼らの間ではねたみあいが絶えないし、たがいに不和を巻き起こすのが実情である」(342)


>では理性による社会の建設はやはりそもそも理想の世界(ユートピア)でしか存在し得ないのだろうか。しかし、スピノザはそれが決してそのような現実にはありえない世界のこととして考えていない。


「他方、それにもかかわらず、彼らにとって孤独の生活をおくることはほとんど不可能に近いので、「人間は社交的動物である」というあの定義づけがほとんどの人に強い支持をうけたのであろう。また実際、人間の共同社会からは、危害よりも、はるかに多くの利益が生まれているのが実情である」(343)


>ここに理性の思想家であるとともに、哲学教授の要請をことわり、一市民としての生活を貫いたスピノザの人間愛が示されている。


「したがって風刺家には彼らのやりたいだけ思う存分に、人間的なことがらをあざ笑わせるのがよかろうし、また進学者にはその人間的なことを呪わせておくのもよかろう。また人間嫌いな者にはできるだけ、未開の粗野な生活を賞賛させ、そして人間を侮蔑し、野獣をほめたたえさせるのもよかろう。ところが彼らは、自分たちの必需品を人間同士の協力によってきわめて容易に自分たちのために用意すること、そしてたがいに力をあわせること、これがなければ、いたるところから驚異となってせまる危険をさけることができないという事実を経験すればわかるであろう」(343)


>スピノザをユートピアの思想家あるいは理想主義者とみなすことほど、スピノザを誤解することはありえない。人間における理性の存在、あるいは社会における理性の存在を探求し続け、そこから人間と社会を構想した希有な思想家としてスピノザは今も輝きつづけている。

>ある人びとは、自然が人間にいくたの有用な手段をあたえてくれていることから、自然には支配者がいて、人間のためにさまざまな配慮をしてくれていると想像した。しかし、それは本当だろうか。


「(自然が彼らのためにあたえられていると考える)彼らは自然の中にある有用物の中にも少なからぬ有害物、すなわち暴風雨、地震、病気などを発見しなければならなかった」(72)


>では彼らはそれをどのように解釈したのだろうか。


「このような有害物は神々に加えた人間の侮辱のめに、あるいは神を崇拝するさいに人間がおかしたあやまちのために、神々が怒ったから生じてきたのだと、彼らは主張した」(72)


>今でも、何かの災害がおこると、それを人間に対する神の怒りや警告とみなす人びとがあとをたたない。そしてそれは、有用物と有害物が、また敬虔な人もそうでない人も同じように無差別におそうことから、神々をさらに不可知な存在として神秘化するにいたる。


「彼らは、神々の判断が人間の理解力をはるかに超えていると確信するにいたった」(72)


>こうして不条理なことが起これば起こるほど、神々は絶対化される。しかし、人間の精神はそのようなまどわしの中にとどまらず、そのような憶測を克服する能力をあたえられているとスピノザは考える


「(自然には目的があるという考えがあるが)目的に関係せず、ただ図形の本質と特質だけを問題にする数学が、人間の真理についての他の規範を示さなかったら、まさにこの一つの理由だけから、真理は人類にとって永遠にかくされたままになっていたことだろう。そしてわれわれは、数学以外にも、人間が(全人類にくらべればきわめて少数の人間ではあるが)これらの共通な偏見に気づき、ものの真の認識に導かれることを可能にするような他の諸原因をあげることができる」(72)


>近代科学の示すところを見なければ、それを安易に批判することこそ愚かなことである。

>人間のために神が自然を役立てるように配慮しているという考えは、世界の民族に共通している。例えば豊穣の神をもたらす太陽神は我が国でもみられる。しかし、そのような人間中心の考えにスピノザは反対する。ではスピノザの批判している人間中心主義の考え方とは何か

「人間はいっさいをある目的のため、すなわち自分の欲する利益のために行う。(略) されに彼らは、自分の利益をもとめるために、少なからず有用な手段を数多く自分の内外に発見する。すなわち、ものを見るための目、ものを噛むための歯、栄養のための植物と動物、ものを照らす太陽、魚を養うための海などを発見する。(略) 彼らはすべての自然物をいわば利益のために手段として考えるようになった」(70)


>そして、そこから自然を支配し、人間に配慮する存在が導びき出されることとなった


「これらの手段は、なるほど彼らによって発見されたものであるが、自分たちの調達したものでないことを知っているため、他のだれかがそれらの手段を自分たちの使用に供するように取りはからってくれたと信ずるようになった」(71)


>こうして人間は神に愛された特別な存在として、また自然は人間のためにある、という思想が生まれるようになった


「この結果、各人は神が自分を他のだれよりも愛し、全自然を自分の盲目的な欲望と飽くことを知らない貪欲に向けてくれるように、神崇拝のさまざまな様式を自分の性格からおしはかりながら考え出した」(71)


>特に原始的な宗教にはそれが露骨に見え隠れしている

>スピノザは彼のいう三つの基本感情(欲望、喜び、悲しみ)を分析しおえたところでで自分の人生観について次のように語っている


「われわれがきわめて多様な仕方で、外部の原因によってたえず動かされるということ、しかもわれわれは逆風にさわぐ海の波のように、自分のたどりつく所も、また宿命についても知らぬめまに流動する」(262)


>人間の可能な限りの知恵を極めたと思われるスピノザにして、はじめて口にできる言葉である。次の言葉はそれをふまえて、スピノザが自分自身を戒めた言葉ではないだろうか


「私は、感情を導いたり、また感情を抑えたりすることについての人間の無力を隷従と呼ぶ。というのは、感情に支配される人間は、自分自身を支配する力をもちあわせず、むしろ運命の力に自分をゆだねてしまっているからである。そのため自分にとってより価値のあるものを見ながら、外からの強制によって、より劣るものに追従してゆくことがしばしばある」294


>スピノザはつねに高みをめざす人だったと思う

>スピノザの思想は唯物論と解釈する立場もあるが、真意は精神であり延長である存在として人間を理解しなければならない、ということである。その具体的論拠は彼の身体についての実際の経験をふまえた身体論にある。まずスピノザが確認するのは精神と延長(身体)の区別である。


「精神の思索活動を決定するものは、思惟(精神)の様態であって、延長の様態、いいかえるならば、それは身体ではない」180


>確かに私がさまざまなことを考え、推論する、例えばA>B B>CからA>Cを導くことは延長の様態がどうあっても、それとは全く関わりがない。例えばその結果は身体の調子の善し悪しに関わりはない。しかし、では身体は物として考えるだけでよいのだろうか。この点、スピノザの言い方は微妙である。


「身体の運動と静止は他物体から生じなければならない。そしてこの物体(身体)は、すでに別の物体によって運動と静止へと決定されている。一般的にいうならば、身体の中で生じるものは、すべて延長の様態に変様化しているかぎりの神から生ずるものでなければならない」180


>身体が物体である。しかし、それは何かが物体に変様するものとしてここでは理解されている。なぜなら、単なる物体は自分で動くことをしないが、身体はそうではない。例えば歩行は一つ一つの動きを意識的に行っているわけではない。


「実際、身体は何をなしうるのかを今日まで明確にした者はいなかった。すなわち、ただ物体的であると考えられるかぎりでの身体が自然の法則に従って何をなしうるか、また身体が精神によって決定されないときは何をなしえないかという点を、これまで経験は何も教えなかった」181


>身体は精神のはたらきなしに、多くのことをなしている。それをどのように考えればいいのか

「人間の知恵をはるかにしのぐ多くのことが、動物の中に観察されることや、また夢遊病者が覚醒中につとめて抑止しているようなことを睡眠中にしばしば行っていることなどについてはここで言及する必要なない。ただこのことは、明らかに精神でさえも驚くような多くのことを身体自身が自己の本性の法則のみに従ってなしうるという事実を、あますととなく示している」181


>この点、現代の生理学は身体の運動の精妙な仕組みについての多くの事実を明らかにしている