これは、当社で戦前まで盛んにおこなわれていた神事相撲の画像ですが、今日は神社の昔の写真についてお伝えいたします。

 

 

その前に、今日は、宮司を兼務する金沢市千杉町・貴船神社の春季祭を午後2時より奉仕いたしますが…。

 

 

昨日は、朝9時からの地鎮祭が延期となったものの、午前11時より白山麓の白山市別宮町・白山別宮神社の春季大祭を奉仕いたしました。

 

 

また、午後2時からは金沢市桐山町・日吉神社の春季祭を奉仕し、そのあと車の交通安全祈願をおつとめいたしました。

 

 

さて、当社は、社前を流れる河原市用水という灌漑用水の守護神でもあるので、毎年8月15日に水利感謝の大祭「水道祭」を300年以上連綿と続けております。

 

 

その、河原市用水水道祭の勧進相撲は北加賀ではつとに有名で、金沢や旧河北郡内から、最高位の大関を目指して、多くの草相撲力士が参加したそうです。(※神事相撲の最高位は横綱ではなく大関)

 

当社の神事相撲は、「水なし、高さ九尺 八幡山(やわたやま)神事相撲」として喧伝され、土俵の高さが九尺もあるので、負けて土俵を割ると転げ落ちたとのことです。


はじかみ神主のぶろぐ

 

これは、当社に残る、明治時代から昭和初期にかけての相撲勧進(かんじん)の奉加帳(ほうがちょう)です。

 

これを見ると、当時の青年団が寄付集めのため、金沢の商家や旧河北郡内を隈なく回ったことがわかります。


はじかみ神主のぶろぐ

 

ですが、当社の神事相撲も、戦禍により若者達が次々と出征し、昭和17年を最後に中止を余儀なくされました。

 

戦後の翌年に復活が図られ、翌22年まで2回続けられたのですが、戦後の混乱で寄進が思うように集まらず、以後途絶えたままとなりました。

 

画像は、昭和26年に、当社の1250年の式年大祭が齋行された際、記念事業の一環として一度だけ復活した時のもので、現在土俵跡は駐車場となっております。


はじかみ神主のぶろぐ

 

なので、今に伝えるのは、この「天下太平(てんかたいへい)」「至誠通神(しせいつうしん)」と書かれた軍配のみです。

 

 

次の画像は当社の旧拝殿です。

 

社務所は向かって左にあり、その奥に神饌所(しんせんしょ)が付属されておりました。(昭和30年頃)

 

 

画像は、昭和35年6月5日の忠魂殿例祭(招魂社大祭)での森本地区戦没者慰霊祭の様子で、祭典前に献花式が行われた時のものです。

 

斎主は、当時宮司だった祖父で、祭員は禰宜だった父で、いずれも鬼籍に入っております。

 

 

こちらも、市内の田村天月社中による招魂社大祭での「敷島舞」の奉納で、当時は忠魂殿が幣殿の右側にありました。

 

 

今は、幣殿左側に忠魂殿を奉斎いたしております。

 

 

そして、現在の拝殿と社務所で、昭和54年に建て替えられました。

 

 

こちらは、大正時代に撮影された当社の本殿で、当時は屋根が檜皮葺(ひわだぶき)だったようです。

 

 

今の本殿は、昭和3年に総尾州檜造り(木曽のヒノキ造り)で建て替えられました。

 

 

現在、本殿は雪囲い用の下見板の覆屋でおおわれていますが、内陣は当時のままに美しく保たれております。

 

 

最後は、解体される当社旧遙拝所(御影所)です。(平成14年3月)

 

 

遙拝所地鎮祭の様子です。(平成14年4月)

 

当社遙拝所は、1300年式年大祭の記念事業の一環として建て替えられることになりました。

 

 

遙拝所上棟祭です。(平成14年6月)

 

 

遙拝所竣工清祓祭の様子です。(平成14年10月)

 

 

そして、現在の遙拝所です。

 

先日11日の例祭の折、氏子のみなさまに神社の古い写真をパネルにしてご披露申し上げたところ、大変好評を得たので、ブログで再度ご紹介した次第です。

 

 
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