昨日は大安の日曜でとても忙しく、朝7時前に家を出て金沢市南部の横川1丁目で地鎮祭をして、朝食はセブンイレブンでサンドイッチ1個とセブンカフェのコーヒーで済ませ、すぐさま神社に戻って厄除け2件をつとめ、そのあと神役のFさんと共に津幡町との境にある山里の集落の秋祭へと向かいました。

終わってすぐさま、今度は白山麓の旧河内村(現白山市)の神社に直行したのですが、鶴来のほうらい祭りを避けて街中を通らずに向かい、秋季祭と若衆が担いで練り歩く造り物のお祓いをおこないました。

途中、コンビニでホットドック1個を買って運転しながら遅めの昼食を食べて、神社に戻って初宮詣をおつとめしてから、午後3時からの中山間地の村落の秋祭を奉仕し、祭典後の祭り宿(やど=当番の氏子宅)での直会(なおらい)でヘベレケになるまで御酒を聞し召し(きこしめし)、夜帰宅してバッタンキューと寝てしまいました~。

さて先日、半年ぶりに越中・富山の売薬さんが我が家を訪れました。

富山県滑川市の吉田快晴堂の社長さんです。10年ほど前までは、所属する別の売薬さんがウチの町内を回っていたのですが、年老いて引退し、今は社長さん自らが訪問しています。

富山の売薬さんは全国のお得意さんを回ります。この社長さんも、この後雪の降る前に新潟からフェリーに乗って車で、北海道の釧路を回ると言っていました。


これは我が家の薬箱(配置薬・置き薬・預箱〔あずけばこ〕)ですが、全国を回る富山の薬屋さんはお得意先にこの置き薬を配置し、次回の訪問時に使用した分の代金を清算し、集金する仕組みを取っています。

これを、先用後利(せんようこうり)といいます!。

「用いることを先にし、利益は後から」とした富山売薬業の基本理念で、江戸の元禄の頃から現代まで脈々と受け継がれているんですよね!。


ですが、私の子供の頃は、このような薬箱だったと思いますが…。


売薬さんは、このような柳行李(やなぎごおり)に薬などを入れて、大きな風呂敷に包んで持ち歩いています。

社長さんのこの柳行李は、もう40年も使っている年代物だそうです。


昔は、このブロンズ像のように、富山の売薬さんは商人宿に泊まって、全国各地のお得意先を歩いて回ったものですが、今は車やバイクで訪れます。

でも、この富山駅前の売薬さんのブロンズ像は、北陸新幹線開業を機に取り壊されたのだそうです。


で、五段になっている柳行李(やなぎごおり)ですが…。


1番上には、重要な顧客管理簿の懸場帳(かけばちょう)、算盤(そろばん)、筆記用具、財布などを入れ。

2番目には得意先へのおみやげ品やチラシなど。

3番目には回収した古い薬を。

4番と5番目には得意先に預ける新しい薬を入れました。


そして、昔も今も変わらぬものは、このおまけの四角い紙風船です!。

子供の頃、富山の売薬さんが来ると、これをもらうのがとても楽しみでした。1個だけ小さな穴が開いていて、そこから口で空気を入れて膨らませるのですが、手でポンポンするとすぐ破れたものです。

今は、六神丸(ろくしんがん)などの医薬品名が印字されたゴム風船もいっしょにもらえます。



今回の紙風船には、富山の配置売薬の歴史が絵物語風に描いてありました。

越中・富山の売薬の歴史は元禄3年(1690)にさかのぼります。

百万石の加賀藩から分封した、支藩の富山10万石2代藩主・前田正甫(まえだまさとし)公が江戸城に登城したおり、陸奥三春藩(みはるはん=福島)5万石の3代藩主・秋田輝季(あきたてるすえ)公が、激しい腹痛をうったえて倒れていました。

正甫公は、持参していた反魂丹(はんごんたん)を与えると、たちどころに輝季公は治癒(ちゆ)しました。

並み居る諸大名がその偉効(いこう)に感服し、自分たちの藩内での販売を望んだといいます。

正甫公の命で、諸国に行商させたのが富山売薬のはじまりで、やがて配置売薬に代わっていきました。文久年間には売り上げ20万両、行商2,200人に達し、昭和9年の行商人14,160人がピークであったそうです。

でも、「越中富山の反魂丹、それをのむ奴ぁ、あんぽん丹」なんてよく言いましたよね!。


我が家の配置薬も補充されました。

しかしながら、東日本大震災が起こった4年前の秋に吉田快晴堂さんが訪れた時、社長さんの話では被災された方や他県に避難された方があまりにも多いので、東北(岩手・宮城・福島)を担当する売薬さんも相当廃業されたのだそうです。


で、懸場帳(かけばちょう)のことを先述しましたが、昔から売薬さんにとって命の次に大事なものなのです。

社長さんは柳行李(やなぎごおり)には入れずに、別にステンレスのアタッシュケースに入れて厳重にしまっておられました。


画像は、富山市民俗民芸村の売薬資料館にある昔の懸場帳ですが、「懸場」とは、それぞれの売薬さんが行商した区域のことをさします。

懸場帳には、全国の得意先の住所や氏名や家族構成、販売した配置薬の種類や売上高や集金高、いつ訪問したかなどの情報が事細かに書き留められており、非常に大切なものです。

見合いの資料にもなったといいますから、昔は売薬さんが仲人代行業のようなことも兼ねていたのかもしれません。

まさにデータベースのはしりともいえるものですが、懸場帳自体が財産価値を持っているので、廃業した場合は同業者間で多額の金額で取引されるのです!。


そして、今は算盤ではなく、なんとPDAで清算するんですよね。Σ(゚д゚;)


顧客や商品(薬)バーコードをPDAより赤外線通信し、またたく間にモバイルプリンターより清算書が印刷されます。

PDAの情報はパソコンへとつなげられ、これで顧客管理や薬の在庫管理もできるわけで、まさに現代の懸場帳ともいえます!。

社長さんが前にもおっしゃっていましたが、ソフトを開発したのは金沢の会社で、月2万円のリース料を払っているのだとか…。


ちゃっかりと、富山の観光情報パンフと、私が鉄道ファンだということで、富山地鉄(富山地方鉄道)の観光特急のパンフまで置いていかれました~。


富山の観光大使までつとめているとは、越中の売薬さんおそるべしです!。

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