これから書く話は実話ですが、11年前に亡くなった今は亡き母から聞いたことです。3年前にも一度この話を書きましたが、再び手直ししてお伝えします。


終戦からまだ間もない頃、当時女学生だった母(久美子)は竹麻呂(たけまろ)という赤犬(雑種)を飼っていたそうです。


母の実家は、口能登の旧志雄(しお)町菅原という在所で、今は町村合併により宝達志水町(ほうだつしみずちょう)となった旧県社である菅原神社の娘でした。


天正9年(1581)、織田信長より能登一国23万石を拝領した前田利家が、能登へ入国した際に一時この菅原庄に城を築き在城したと伝えられています。はじめ羽咋郡飯山(いのやま)に居城を置いたのですが、水の便が悪いので菅原城へ移り、その後七尾へ本拠を移しました。


ですので、御祭神は菅原道真公とともに藩祖・前田利家公をお祀りしており、神社は里の中心となる小高い丘の上に鎮座しております。


はじかみ神主のぶろぐ

私も子供の頃、お盆になると母に連れられて里帰りしたものですが、夜ともなると青年団主催の盆踊りが境内でおこなわれていました。


集落内には若衆宿(わかしゅうやど)と呼ばれる青年団の寄合所もあったのですが、母の女学生時代も、春秋の祭礼前の獅子舞の練習や、夏ともなるとこの盆踊りの準備のため青年団が社務所に集まり、ワイワイたむろしていたそうです。


当時はほとんどが専業農家であったので、若者達も勤めに出ることもなく、農業に従事していたのです。


朝、母は愛犬・竹麻呂の散歩を終えて、学校へ行こうとした矢先、社務所にたむろする青年団から「久美ちゃん、行ってらっしゃ~い!」と見送られたそうです。


そして、学校から帰って、まっ先に竹麻呂のところへ駆け寄りましたが、愛犬はいなかったそうです。


どこを探しても竹麻呂がいないので、社務所で鍋をつつきながら飲んでいた青年団達に聞いたところ…。


「久美ちゃん、お帰り、いっしょに肉鍋を食べんか?」と言われたそうです。


母はハッとなって、「その肉どうしたん?」と尋ねたら…。


青年団は、「これ、赤犬の肉や!」…。


母はそれを聞いて、泣き叫んで、とても悲しんだそうです。


確かに、食料事情の悪かった時代とはいえ、無茶苦茶な話ですね。


お前、今の時代に生まれて幸せだな、宗二郎!。


はじかみ神主のぶろぐ


あの時代だったら食べられていたかもな?…。


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