今年は柿が豊作です。
私の近所で、おじいちゃんおばあちゃんの居る農家では、現在干し柿づくりのピークを迎えています。
干し柿は、このように軒下などに吊られることから、別名・吊るし柿あるいは、ころ柿(枯露柿)とも呼ばれています。
干し柿の材料は渋柿を使うのですけど、乾燥させた渋柿は甘柿以上に糖度が高く、実に砂糖の1,5倍の甘さがあるのだそうです。
よく干し柿の表面に白い粉が付着しているじゃないですか。これは柿霜(しそう)と称して柿の実の糖分が結晶化したものなのですけど、昔から柿霜は喉(のど)を潤し、清熱、痰(たん)を切る生薬として尊ばれてきました。
すると、さっそく昨日、氏子のMさんから出来立ての干し柿をいただきました~♪。
2週間ほど前、M家の納屋の前を通ると、干し柿づくりをされている光景を偶然見かけたのですが、Mさんが「宮司さん、完成したら神様のお供えに持って行くよ~」と言われていたのです。
干し柿は、1個づつ丁寧にサランラップで巻かれています。Mさんの奥さんの話では、「真空パックの状態で冷凍すると1年持つ」とのことです。なお、1パックは神様に、もう1パックは食べてくださいとのことなので、今度の11月23日の当社・新嘗祭(にいなめさい=新穀祭)に神饌(しんせん)としてお供えさせて戴きます。
で、さっそく、神前へお供えした後お下げして、女房とお茶請けに食べてみることにしました。
出来立ての干し柿は、中は半熟で柔らかくとても甘いです。市販の干し柿とはひと味もふた味も風味が違います。
米と大豆だけで作られる天保元年(1830)創業の金沢の老舗・俵屋
のじろ飴
や、高級砂糖の四国の和三盆(わさんぼん)、サトウキビの絞り汁を煮詰めて作る沖縄の黒砂糖などと同じように、自然で上質でやさしい甘さです。
下の画像は、先日尾山神社でおこなわれた、神社庁金沢市支部の神宮大麻暦頒布始奉告祭の神饌(しんせん)です。
①米(新米) ②酒+塩・水 ③餅 ④五穀・古代米 ⑤海魚(鯛) ⑥川魚(鮎) ⑦野鳥(鶏卵で代用) ⑧海菜(昆布や海苔等) ⑨野菜(季節の物) ⑩果(季節の果物) ⑪菓子の11台となっております。
神社の祭は、大祭、中祭、小祭に区別され、神饌の台数も決まっております。特に、明治8年に「官国幣社(かんこくへいしゃ)以下神社祭式」が定められて以降は、神饌は全国的に画一化されたものになりました。 神社本庁の「神社祭式」による現在の大祭式の神饌は…
1、和稲(にぎしね)…精米したお米
2、荒稲(あらしね)…籾(もみ)の状態のお米です
3、酒…お神酒です、新嘗祭(にいなめさい)の場合は濁酒を供える神社もあります
4、餅…白・白の鏡餅が基本ですが、一社の故実で、丸餅や花びら餅など、特殊な形状の餅を供える場合もあります
5、海魚…一般的に鯛を供えますが、当社の鎮火祭のように鱈(たら)や、一社の故実で鰤(ぶり)や鱸(すずき)、アワビなど貝類を供える場合もあります
6、川魚…鯉(こい)が基本ですが、中には鮎(あゆ)や鮒(ふな)などを供える場合もあります
7、野鳥…奈良県奈良市の春日大社や同県橿原市の橿原神宮では、実物の雉(きじ)や鶏(にわとり)などの山鳥をお供えしますが、入手が困難なので、一般の神社では鶏卵を代用としています
8、水鳥…雁(がん)や鴨(かも)などの実物の水鳥を供える神社もありますが、これも入手が困難なので、明治神宮などでは鶉(うずら)の卵を代用としています
9、海菜…「奥津藻葉(おきつもは)」の昆布や若布、「辺津藻葉(へつもは)」である、ひじき、あらめ、海苔(のり)など
10、野菜…「甘菜(あまな)」である芋、人参、藷(いも)、芹(せり)、かぶ、なずな、はこべらなどで、一方、「辛菜(からな)」は大根、芥菜(からしな)、薑(はじかみ)などですが、現在は季節の野菜を供えます
11、果…果物です、菓子は昔、「くだもの」と呼ばれ、木の実を意味していました、干し柿のように菓子は果子であり、果物がすなわち菓子であったからです、後に人工の菓子が現れて、菓子と果物が区別されるようになりました
12、塩・水…お塩とお水です、人間も塩分と水がなければ生きられないように、神様にも「おわしますが如く」お供えするのです
となっておりますが、この中で11番目の「果」のように、昔は果物も菓子も同じだったのです。
![はじかみ神主のぶろぐ](https://stat.ameba.jp/user_images/20121023/02/hajikamijinja/ee/83/j/o0400030012250470762.jpg?caw=800)
平安中期の延喜5年(905)に醍醐天皇の命により編纂された『延喜式』にも、祭典に干し柿が菓子として供された記載があります。
菓子の「菓」という字は、単に草冠をつけたものです。これは昔の菓子が、果実であったことを物語っており、今でも、果物のことを水菓子と呼んでいますよね。
我が国に、砂糖がはじめてもたらされたのは、天平勝宝6年(754)のことです。鑑真和上(がんじんわじょう)によるといわれていますが、いわゆる穀類から菓子を作り出したのは、もう少し前のことです。
つまり、大宝令(701年)の中に、「主菓餅(しゅかへい)二人、菓子を掌(つかさど)り、雑餅を造る…」という記述があり、大膳職(だいぜんしき・おおかしわでのつかさ)の中に、餅を作った者がいたことがわかります。これが文献に現われる菓子の最初の記述で、仏教の伝来とともに唐菓子も伝えられたと思われます。
このお菓子の神様をおまつりするのは、兵庫県豊岡市に鎮座する延喜式内の古社で旧県社の中嶋神社です。なお、以下の画像は全てクリックすると拡大します。
毎年4月の第3日曜日(以前は15日)には「菓子祭」を齋行し、全国の製菓業者から崇敬を集めていてます。
また本殿は、生長元年(1428)の建立で、室町中期の作として国の重要文化財に指定されております。
中嶋神社の神様は、菓祖・田道間守神(たじまもりのかみ)で、元々は但馬国(たじまのくに)の国司でしたが、垂仁天皇(すいにんてんのう)の90年、天皇の命を受けて常世国(とこよのくに)へと旅立ちました。〔※常世の国とは、海の彼方の不老不死の国をさしますが、一説には朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)とあります、田道間守は新羅の王子であったとされているからです〕
その帰りに、「非時香菓」(ときじくのかぐのこのみ)〔※時じくとは、いつもあるという意味で、これは夏から冬まで枝にある香りの良い実、つまり柑橘類をさす〕を持ち帰りました。
ところが、すでに天皇は崩御(ほうぎょ=お亡くなりになる)されていたので、田道間守は、大いに驚き悲しみ、天皇の御陵に、その実の半分を捧げて、殉死したといいます。
この橘(たちばな=柑橘類)をはじめて日本へ伝えた田道間守を偲んで、菓子の祖神と仰ぎましたが、昔の菓子が果実であったという証拠といえましょう。
なお、中嶋神社は全国各地に分社があり、太宰府天満宮をはじめ、京都の吉田神社、さらに、四国の松山市、九州の伊万里市、愛知県の豊橋市、岐阜県の高山市などに御分霊されております。
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