昨日は、朝7時45分に神役のFさんとともに家を出発して、白山市中宮(旧吉野谷村中宮)の笥笠中宮神社の春季祭へと向かいました。中宮は当県を代表する山岳地帯であり、尾添川(おぞがわ)左岸の旧吉野谷村では限界集落となります。
朝の通勤ラッシュで混んでいたため、仕方なく金沢森本ICから白山IC間を北陸高速を利用したのですが、それでも到着したのは午前9時15分で、1時間半もかかってしまいました。
笥笠中宮(すがさちゅうぐう)神社 は笥笠(けがさ)とも読み、白山七社の一にして、別宮・佐羅宮とともに中宮三社の中核をなす神社でした。
白山七社
というのは、白山信仰の全盛期にその中心になっていた、当県における本宮、金剣宮、岩本宮、三宮、中宮、佐羅宮、別宮を言います。
■本宮四社
○白山本宮(はくさんほんぐう)―〔古宮公園・白山市鶴来〕
○金剱宮(きんけんぐう)―〔白山市鶴来日詰町〕
○三宮(さんのみや)―〔三宮(白山比咩神社=しらやまひめじんじゃ)は、室町時代に火災で焼けたため、その末社であった三宮に本宮を遷して現在に至っている〕
○岩本宮(いわもとぐう)―〔能美市辰口にある現在の岩本神社〕
■中宮三社
○中宮(ちゅうぐう)―〔白山市中宮・笥笠中宮神社〕
○佐羅宮(さらのみや)―〔白山市佐良・佐羅早松神社=さらはやまつじんじゃ〕
○別宮(べっくう)―〔白山市別宮町・白山別宮神社〕
平安時代に、白山登拝の起点の馬場(ばんば)が、それぞれ加賀・越前・美濃に設けられ、加賀の馬場では「本宮四社」とされる白山本宮・金剱宮・三宮・岩本宮と、「中宮三社」とされる中宮・佐羅宮・別宮の総称として、近江の日吉七社に倣(なら)い「白山七社」の語が用いられました。
白山七社は、白山の禅定道(ぜんじょうどう)の一つである加賀禅定道の中心的神社となり、それぞれに勢力を誇りました。 その白山七社のうち、中宮と別宮の二社の宮司を私が勤めています。
笥笠中宮神社です。
本宮(白山比咩神社)と禅頂(白山山頂)を結ぶ禅定道(登山道)の中間位置にあったので中宮の名があり、昔はこの神社が加賀の方から白山に登るルートの要衝になっていました。
平安末期には白山へ登る本通りは、小松市古府町にあったとされる加賀の国衙(こくが)から三坂峠、別宮(べっくう)、吉野、佐羅(さら)を経て、中宮、尾添(おぞ)より山頂へ達することができました。
往時は広大な社域に十数棟もの堂宇(どうう)が連なっており、白山五院、三ヶ寺、中宮八院を傘下に置くなど、白山の主導権を加賀の国衙から直接握ることができたので、白山本宮をしのぐ勢力を誇っていました。しかしその後衰退し、明治10年3月に白山本宮・白山比咩(しらやまひめ)神社の摂社に定められ、わずかに面目を保ちました。
境内にはとても大きな手水舎があります。
このように、岩の間から白山伏流水の霊水が湧き出しているのです。
祭典後、中宮の集落を散策してみました。すると、漆喰(しっくい)に龍の鏝絵(こてえ)が施された立派な土蔵がありました。
加賀地方の土蔵には、くずし字で「龍」や「水」の字を描いて火災防止を願うものが多いのですが、龍の鏝絵は、龍は水をもたらす霊獣なので描いたものだと察せられます。
村内には真宗の道場が二ヶ寺と道場仏壇を有する御内仏が二ヶ所あり、それぞれ半僧半俗の方4名によって守られております。
かつては道場は三ヶ寺あったそうですが、昭和29年の中宮大火で焼失し、その後二ヶ寺が再建されました。
これはY氏の道場です。
一方、こちらはH氏の道場です。
豪雪地帯なので、まわりは雪囲いで覆われています。それでは中へとご案内しますね。
外観は、一見普通の民家のように見えますが、中はケヤキの丸柱が施された立派な寺院建築です。
浄土真宗が一向宗と呼ばれた中世以降、各村や地域に道場が開かれ、道場を中心にお勤めを行なっていたものが、その後在家報恩講が営まれるようになり、近世になるとその一部が、寺号を得て寺院化していきました。
現在も、都市部から離れた山間農村部にわずかに残っていますが、中宮のように二ヶ寺も現存するのはとても貴重なことなのです。半僧半俗の僧籍を得た方によって、日々お勤めがなされています。
以前、やはり同じ白山麓の旧鳥越村である白山市左礫(ひだりつぶて)町の道場を調査したことがありますが、道場内部中央に囲炉裏(いろり)が切ってありました。
中宮の道場も、かつては囲炉裏があったそうですが、使い易いように囲炉裏を埋めて畳敷きにしたようです。
中世以来、神仏の信仰の篤い中宮集落を後にし、午後からの金沢市千杉町・貴船神社の秋季祭へと向かった次第です。
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