本年2月12日、加賀藩主前田家墓所は、富山県高岡市の前田利長墓所とともに、国史跡として指定されました。


そこで、天気の良い日に訪れようと思い立ち、一昨日の伏見台公民館での講演のあと、2年ぶりに初冬の墓所を散策いたしました。


金沢市街の南西部に位置する野田山は、豊かな自然に恵まれ、そこには前田家墓地をはじめ家臣や、多くの著名人や市民の墓があり、金沢の一大聖地といった感があります。


天正15年(1587)、初代藩主・利家(としいえ)の兄・利久(としひさ)をここに葬ったのが墓地の始まりとされています。ついで遺言により利家の墓がつくられ、以後、頂上付近には利家以来の歴代藩主と正室、親族など約70基の墓があり、それから下の方には家臣たちの墓がつくられました。


市営墓地駐車場に車を止て、少し上に登ると、野田山の山頂に利久の墓がありました。


利久は尾張国荒子城主・前田利春の嫡男として生まれ、永禄3年(1560)父の跡を嗣いで尾張荒子城主となりました。


しかし、永禄12年(1569)に信長の命により弟・利家に家督を譲りました。のちに利家は金沢城入城(1583)後、利久を金沢に迎え、客分として鄭重に待遇しました。


そんな、負い目もあってか、一番高いところに長兄・利久を埋葬したのだと思います。

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   前田利久公(真寂院)の墓


利久の墓の真下に、並ぶように加賀藩祖・前田利家公と夫人のおまつの方の墓があります。


NHK大河ドラマ「利家とまつ」でも放映されたように、今さら説明はいらないと思います。

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藩祖・前田利家公の墓の正面です


前田家の墓はいずれも土を高く盛り上げた土饅頭(どまんじゅう)形式で、特に藩主とその正室の墓は四角形の土檀(どだん)を階段状に重ねた特徴的な外観をしており、一見すると古墳時代の方墳(ほうふん)によく似たものとなっています。


墓の周囲には溝を廻らせて外界と墓域を区画しており、大きさも、利家の墓で一辺約19メートル、他の藩主墓でも一辺約16メートルと、他藩では類を見ない大規模なものとなっています

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利家公(高徳院)の墓② 側面より撮影


そして、なんと驚くことに、利家の墳墓の一番上に、野生のカモシカが住み着いておりました。


若い頃はカブキ者として、槍の又左で名を馳せた利家も、さぞや草葉の陰で苦笑いしていることでしょうね!。

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       利家公の墓③

「利家とまつ」にあやかってか、番(つがい)

で寄り添うカモシカのオスとメス見えますか?

利家公の墓のすぐ右隣りには、おまつの方(芳春院)の墓があります。


内助の功高く、利家没後、家康の誤解を解き徳川家と加賀藩との礎として、自ら進んで人質として江戸に赴き、14年間江戸で過ごした後金沢に戻り、3年後の元和3年(1617)金沢で71歳の生涯を閉じました。
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     おまつの方(芳春院)の墓


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利家夫人墓の前には、「加賀藩主 前田家

墓地」の案内看板が設置されております


そして、芳春院(まつ)の墓の真下には、村井長頼(むらいながより)の墓があります。


長頼は武勇に秀で、利家に従って各地を転戦し、奥村永福(おくむらながとみ)とともに利家の両腕となり、信長や秀吉にもその名を知られ、文禄元年(1592)には禄高が1万245石に達しました。


隠居後の慶長4年(1599)閏(うるう)3月に利家が没すると、その翌年に人質となった芳春院の江戸下行に同行し、慶長10年(1605)に同地で没しました。死後も利家とまつに随従する意味で、その真下に墓地が与えられたのです。


前田家墓所は、その位置関係から、家族、主従の関わりの深さが読み取れます。


副碑には「村井又兵衛豊後守長頼」とあり、主君・利家の通称・又左衛門から一字を賜って又兵衛としたことを、終生誇りとしたことがうかがえます。

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     村井長頼の墓


利家・まつ夫妻の側(右隣り)に、代藩主・利長(としなが)の墓があります。


利長は利家・まつの嫡男として永禄5年(1562)尾張国荒子に生まれました。幼名利勝、後に利長と改め、利家と共に戦国歴戦の武将です。


利長の加賀藩主としての在位はわずか7年ですが、金沢城の修築にキリシタンとして名高いの高山南坊(高山右近)を用い、百間堀の石垣などを造らせました。


慶長10年(1605)に違腹の弟・利常に藩主の座を譲り、自らは富山城に住みましたが、慶長14年(1609)に居城が焼失したため、海陸の交通要所である高岡に城を築き移り住み、今日の商工都市高岡の発展の礎を築きました。


今回、国史跡として共に指定された高岡市の利長の墓所は、利長の三十三回忌に際して、3代利常が瑞龍寺(現在国宝)とともに造営したもので、二重の堀に囲まれた一辺180メートルの正方区画内に方形二段の墳丘が造営されており、金沢の前田家墓所と同様の造墓原理が採用されており、大名個人の墳墓としては全国最大級の規模を誇ります。

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  こちらは、野田山にある

  二代・利長公(瑞龍院)の墓


利長の墓の真後ろに、正室・永姫(えいひめ)の墓があります。永姫は信長の四女として知られています。


利長は弟の利常(としつね)を順養子として迎え、家督を譲って隠居し、慶長19年(1614)に利長が高岡城で死去すると、永姫は金沢に戻って剃髪(ていはつ)し、玉泉院(ぎょくせんいん)と号しましたが、元和9年(1623)に50歳で死去しました。

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 利長夫人・永姫(玉泉院)の墓


その永姫(玉泉院)の墓の右手には、ひっそりと豪姫(ごうひめ=宇喜多秀家正室・樹正院)の墓があります。


豪姫は、利家とまつの四女で、親しかった羽柴秀吉の養女となり、大切に育てられました。16歳の時、やはり秀吉の養子扱いとなっていた宇喜多秀家と結婚。備前御方、のち南御方と呼ばれ、二男一女を設けました。


秀吉に可愛がられ、期待されていた秀家・豪姫夫妻でしたが、関ヶ原合戦で敗れた秀家は息子とともに八丈島に配流(はいる)となってしまい、豪姫は娘を連れて実家に身を寄せ、夫と息子を案じつつ金沢でさびしい生涯を閉じました。
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豊臣政権下では、五大老のひとりで

あった秀家夫人の墓としては、あま

りにも侘しい墓ですね


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案内板には、「中納言 宇喜多秀家

夫人豪姫の墓」とあります


ふたたび、駐車場へ戻って参りました。すると、そのすぐ近くには、加賀八家(はっか)の年寄、奥村宗家の墓がありました。


墓所の中央には、奥村家の高祖(こうそ)である永福(ながとみ)の顕彰碑があります。

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   奥村永福を顕彰する碑


碑文には、末森城の合戦等の功績が記されており…。

奥村永福(ながとみ)は通称助十郎、助右衛門で、禄高1万2000石余り。村井長頼と並ぶ、利家の寵臣でした。


利家の父利春や兄利久に仕え、利家が荒子城を受取りにきた時には、城代であった永福は「利久様の書状を見ぬうちは、城を明渡すことかないませぬ」とこれを突っぱねています。以後浪人し、利家の越前朝倉攻めに参戦して功を立て、再び前田家に仕えます。


永福の名を高めたのは、有名な末森城の合戦で、彼は守将として善く戦い、夫人も永福をたすけて篭城する味方を激励しました。利家はその遺言に、村井長頼と永福にはことのほか心を配るように指示しています。永福は主君の死に伴って隠居、剃髪した後も、大坂の陣では金沢城代をつとめました。


その功によって、奥村家は、本家・支家ともに加賀八家の年寄に名を連ねました。

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    近年建立された

  「奥村家高祖墓地」の石柱


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中央が知将の譽高い、奥村永福の墓


利家・まつの墓より真っ直ぐ伸びる石階段を今度は降っていきましたが、200段近くもあり、しかも苔むしているので、滑らないように慎重に歩を進めました。

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降りるだけでも結構きつかった~!


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 そして、たどり着いたのが

  前田家墓所の入り口です


「史跡 加賀藩主前田家墓所」と刻まれた石柱の裏には、「平成21年2月12日指定」、「文部科学省 金沢市」とあります。

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標柱(石柱)の裏を撮ってみました


この石柱を左に折れると、荘厳な雰囲気の墓所参道が続きます。

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  片側が日光杉並街道

  のような雰囲気ですね


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しばらく行くと歴代藩主の墓が…


鼻毛の殿様の逸話が残る名君、3代藩主・利常(としつね)の墓がありました。


利常は、藩祖・利家の四男として文禄2年(1593)に金沢で生まれました。二代利長に男子がなかったので慶長10年(1605)その跡を嗣いで藩主となりました。齢13才、二代将軍秀忠の二女珠姫(たまひめ)を夫人に迎えました。


利常は改作法(かいさくほう)という画期的な農政を実施しました。このため加賀藩百万石の治世が安定しました。また美術工芸の振興に努め、さらに神社、仏閣の造営にも力をそそぎ、名工・山上善右衛門(やまがみぜんえもん)を用いてこれに当たらせました。


今日重要文化財として後世に伝える、羽咋市の妙成寺(みょうじょうじ)、小松市の梯天満宮(かけはしてんまんぐう=現・小松天満宮)、那谷寺(なたでら)、高岡市の国宝・瑞龍寺(ずいりゅうじ)などは全て利常の時代に造営されました。


寛永16年(1639)長男・光高(みつたか)に第四代を継嗣させ、小松に隠居所としての居城を造り、晩年を送りました。この間に小松の商工業を振興させ今日の隆盛の基をつくり、万治元年(1658)小松で逝去しました。享年66歳。

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  三代・利常公(微妙院)の墓


利常の墓のすぐ隣りに、四代・光高の墓があります。


光高は、利常の長男で、母は将軍・徳川秀忠の次女・珠姫(たまひめ・天徳院)です。学問を好み、林羅山(はやしらざん)を招いたりしました。


尾崎神社の前身である東照宮を金沢城内に建立したりしましたが、31歳の若さで没しました。
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  四代・光高公(陽広院)の墓


光高の墓より直進し、すぐに左折すると、五代・綱紀(つなのり)と六代・吉徳(よしのり)の墓が並んでありますが、名君の誉れ高い綱紀公を紹介して、あとは割愛させていただきます。


綱紀は、寛永20年(1643)に江戸で生まれました。


四代・光高が夭折(ようせつ)されたので、正保2年(1645)嫡男・綱紀がわずか3歳の時に藩主の座を嗣ぎました。祖父である、三代・利常はその後見役となっていますが、綱紀が名君となることができたのは、幼少の頃に祖父の養育を受けたからだと言われています。

夫人は会津の保科正之(ほしなまさゆき=三代将軍家光の弟)の娘であり、徳川家とは一段と密接な関係となりました。綱紀は岳父・正之に倣(なら)って、
寛文10年(1670)に浮浪者等を収容するお救い小屋を開設して善政を施しました。


綱紀の治世は80年の長きに亘り、この間素晴らしい業績を残しました。自らも学者として著名であり、新井白石(あらいはくせき)は、「加賀は天下の書府なり」と感嘆したことは有名ですね。


また、多くの名工を招き、美術工芸の発展に努めました。その他文化面での功績は数え切れないほどです。まさに中興の英主といえます。享保9年(1724)5月82歳で卒しました。

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  五代・綱紀公(松雲院)の墓


前田家墓所で唯一、明治36年より宮内庁管轄の墓があります。


八条宮智忠親王妃(はちじょうのみや としただしんのうき)・富子の墓です。


富子は、元和7年(1621)三代藩主・利常の四女として生まれました。母は天徳院(珠姫)です。寛永19年(1642)八条宮智忠親王の妃となりましたが、寛文2年(1662)京都にて身罷(みまか)られ、霊柩(れいきゅう)を父・利常の墳側に帰葬しました。


京都の桂離宮は八条宮初代智仁親王の時創始されましたが、二代智忠親王が加賀百万石のお姫様を奥方に迎えられたので、加賀藩という大きな後ろ盾ができて、新御殿を増築し庭園も現在見られるような美しいものに仕上げたのでした。

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  八条宮智忠親王妃富子の墓


この墓より急な石階段を登っていきますが、こちら側も200段近くあるんじゃないでしょうか?。

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息せき切って、やっと登りきると、ひらけた空間があらわれました。
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十二代斉廣(なりなが)公の墓があり、さらに奥へと進むと、元宮内省式部官兼主猟官をつとめた、従四位侯爵 十七代当主・前田利建(まえだとしたつ)氏の墓がありました。

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隣接して、真新しい「累代之墓」と刻まれた墓があり、現当主である十八代・利祐(としやす)氏が、奥都城(おくつき)として、以後の墳墓を合葬墓としたものだと思われます。

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前田家墓所のほんの一部をご紹介しましたが、すべての墓を回るには、アップダウンの激しい階段と、時間を要しますけれど、国の史跡となった今、じっくりとまわってみるのも、ふるさとの歴史を知る上でいいかもしれませんよ!。




    
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