昔、金沢郊外の農村などでは、青年団が主体となって、素人歌舞伎の興行を盛んに行なっていました。
当地、金沢市北部の森本地区でも、
金沢市今町の「京座」(みやこざ)
金沢市北森本町の「旭座」(あさひざ)
金沢市南森本町の「寿座」(ことぶきざ)
の三座があり、当番村が一年ごとの年交代で、盂蘭盆の8月15日・16日に開催し、地元をはじめ近郷近在から大変な見物客で、終日盛況を極め、大いに賑わったといわれます。
金沢市は、平成17年度より3年間、「森本ふるさと文化財調査研究会」を立ち上げ、それぞれ3ゼミに分かれて郷土の歴史文化を探ったのですが、不肖・私が第3ゼミのディレクターを委嘱され、公募の市民研究員の皆さんと共に、「加賀獅子舞」「伝統芸能」「古民家・アヅマダチ家屋」など調査しました。
今回ご紹介する「素人歌舞伎」は、その一端として記録したものです。
「村芝居」 (素人歌舞伎)は、明治20年頃から始まったといわれ、当時は金沢や小松、七尾などでの芝居芝居興行が全盛の頃で、必然的に田舎の農村部にも広がり、娯楽の少なかった時代に大いに流行したものです。
舞台衣装も、はじめは嫁さんの着物などを借りて演じていたそうですが、衣装や舞台装置もだんだん本格的になり、衣装なども益々派手になったことから、後に金沢市高岡町の「梅岡座」付きの役者から、衣装や道具などを借用し、演技の指導まで受けました。
芝居小屋は、神社の境内などに建てられ、村中が総出で建材やスノコなどを持ち寄り、花道付きの見事な舞台をつくり上げました。
そんな、古くなつかしい、田舎の村芝居があったんだということを、知っていただければ幸いです。
■今町の「京座」
「大正6年9月・秋季祭余興記念」とあります
「大正14年9月・秋季祭礼余興記念」
今の当主Iさんの曽祖父様にあたります
今は庭と畑になっています
この境内に芝居小屋が建てられました
昭和21年8月15日に、終戦後一時的に復活した
北森本男女青年会による演芸大会
結局これが最終公演となってしまいました
近郷近在に配りました
中央の女性は、私の親友M君のお母さんで
現在84歳、当時21歳だったそうです
それにしてもお母さん美人やったんや!
「昔綉(ぬいとり)恋鞘当新吉原仲の町場」
「雌千鳥曽我討入」
「近江源氏先陣館」
「男作五人雁金」(おとこだていつかりがね)
「ひらがな盛衰記」
などが演じられた
この境内にも芝居小屋が建てられました
昭和10年頃の南森本「寿座上演」の写真です
「問われて名乗るもおこがましいが…」
日本駄右衛門ですね
「かまくら三代記」
「義経千本桜」
などが演じられました
弁天小僧菊之助の口上ですね
この伝統ある村芝居も、昭和11年頃まで続きましたが、日中戦争の勃発と、続く、大東亜戦争により芝居は上演の機会を失いました。
戦後、一時期復活の兆しはありましたが、戦後社会の変革により、ふたたび上演することがなくなったのは、さびしい限りです。
最後に、ご存じ、白浪五人男の一人・弁天小僧菊之助が歌舞伎の「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)・浜松屋の場」で諸肌脱いで言う、あのカッコイイ口上で終えさせていただきます!。
「知らざあ言って聞かせやしょう 浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵、百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字、百が二百と賽銭の、くすね銭せえ段々に、悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中の、枕捜しも度重なり、お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され、それから若衆の美人局、ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの、似ぬ声色でこゆすりたかり名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ!」