暴走戦士になりたい | ジェリコの壁のブログ

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大日本プロレス!いや、
デスマッチ!いや、
プロレス!
の良さを伝えるブログ!にしたいです…

こんばんは。
プロレスバカです。


4月から職場の人数が一人減りました。
1番優秀な若い子が退出してしまいました。

1番ダメな奴は、ダメなまま今ものほほんと居続けております。

世の中狂ってますね。いやそいつとそいつの会社が狂ってますね。もうね大嫌い。
こんなク○みたいな人事が通るんだから笑ってしまいますよね。

クレームを受け続けてるダメな人材を何も対策・改善させずに、現場にしゃーしゃーと2年近くも送り続けてるその神経が、もう俺には理解が出来ない次元のお話です。


もう仕事量が…辛い…
人の何倍も働かなきゃ現場が回らない…

まぁもういいか。
次に俺が体調でも崩そうもんなら、俺の会社はもう現場を撤退することが決まってる。

そうなったら、その会社でダメリーダーを頭にして現場を回してみりゃいいさ。

その時初めて、そいつもそいつの会社も、身に染みてダメさ加減が解るだろう。

もうアホくさいので、こんな話は止めましょう。ストレス発散しないとやってられないのでね。

殴り書きとはこの事です。


あ~もう、
暴走戦士みたいに暴れたい…

から、強引に繋げます(笑)

ここからはプロレスの話です。
ちゃんと下書きしてたので少しは読めると思います(笑)


プロレスファンの皆様にも当然ではありますが、プロレスを見始めるきっかけになったとか、最初に好きになった思い入れの強いレスラーって必ずいると思います。


俺の場合、ロード・ウォリアーズと言うことになります。特に向かって右のアニマル・ウォリアーに憧れを抱きました。

俺は父親やおじさんの影響で物心つく前から、我が家のお茶の間では全日本プロレス中継とワールドプロレスリングが普通に流れており、プロレスバカになるには最高の家庭環境でした(笑)

でもほんと小さい頃は、
「またプロレス見てんの…」
「たまには他のテレビ見たい…」
なんて事で、自分の意思で見てるのではなく、見せられてる感は正直ありました。


そもそも小学生低学年の頃の記憶など断片的で曖昧なものではありますが…

でもロード・ウォリアーズを初めて見た時、衝撃が走ったのは鮮明に覚えています。


テレ東の世界のプロレスという番組で、
「AWAにものすごい奴等が現れた!」というような触れ込みでウォリアーズが紹介されました。

CM跨ぎにされるほど、番組内でもプッシュされておりました。

80年代、アメリカはNWA、WWF、AWAが三大メジャー的な感じでした。

このメジャー3団体全てのタッグ王座を獲得したのはロード・ウォリアーズだけです。


インディーですぐに頭角を現したお二人。
リージョン・オブ・ドゥームという軍団におりましたが、メンバーが次々と抜けて、気付いたらアニマルとホークとエラリングが残り、ロード・ウォリアーズとなりました。


少し先輩のロード・ウォリアー・ホーク。
後輩のロード・ウォリアー・アニマル。
そして、プレシャス!と言われていたマネージャーのポール・エラリング。

ウォリアーズのブレインであるエラリングはウォリアーズを売り出すために欠かせない存在だったそうです。


ブラックサバスの名曲IRON MAN。
この曲で走って入場してくるのが、とてつもなくかっこ良かったのです。

小学生の俺はもう夢中になりました。テレビにかじりついて離れなかった(笑)

ウォリアーズはこれまでのアメリカンプロレスの善玉・悪玉の概念を変えた!と言われておりました。

スタイルはシンプルに強さのみを前面に出したもの。

秒殺という言葉も無かった頃だと思いますが、特に格下相手との試合などは、
走って入場してきて、殴る蹴る、パラースラムにリフトアップ、そして合体ラリアット。いわゆるダブルインパクト。

それで、2~3分で試合を片付けて颯爽と去って行く。
相手の攻撃を受けても全く効かない。パイルドライバーを食らっても、スクッとすぐに起き上がる。

そんな設定が子供心に衝撃を受けました。
「なんだこいつらは!」という感じでした。
これまで見たことのないプロレスラー。衝撃でした。


バロン・フォン・ラシク&クラッシャー・リソワスキーとかラリー&カートのヘニング親子とか、ドル箱カードであったファビュラス・フリーバーズとの抗争とか。

今考えると80年代中盤から後半にかけてのロード・ウォリアーズがやっぱりロード・ウォリアーズっぽかったなと感じています。

世界のプロレスでは、
ロード・ウォリアーズvsスタン・ハンセン&ハーリー・レイスという夢のカードを放送してくれたのを覚えています。


早口でまくし立てるインタビューもウォリアーズの醍醐味でありました。
このアニマルのぶっとい腕に憧れたのです!

のちにアニマルが語っていたのは、
リックフレアー率いるフォー・ホースメンとの抗争で多くを学んだと。

スタイルとしてはウォリアーズと正反対の典型的なオールドスクールであるホースメンだが、

ホースメンはライバルでもあり、友であり、師であるとアニマルは尊敬していたようです。

ネイチ若いですね。
向かって右の方が、あの岡林裕二も憧れているアーン・アンダーソンです。

そして、ロード・ウォリアーズがついに全日本プロレスに来る!ってんだから、俺はもうワクワクが止まらなかった訳です。

そのまんまのキャラで馬場さんはロード・ウォリアーズを日本中に見せてくれました。
感謝感激です。

格下相手との試合では秒殺の山。

全日本プロレスのトップであった鶴田&天龍の鶴龍コンビでさえ、ロード・ウォリアーズとの試合では押されまくりだったのを覚えています。

現世界タッグベルトの片方であるインタータッグを鶴龍コンビから奪取して長らく保持しておりました。

wikiによると、鶴田&谷津組がウォリアーズからベルトを奪還したとありますが、
これは鶴田&谷津の五輪コンビがしっかりフォール勝ちしたのでしょうかね?
その試合の記憶は失念しております。


のちに、ロード・ウォリアーズ・アニマルの実弟であるジョニーエースも全日本プロレスの常連外人になりました。

エース・クラッシャー。小橋&エース組は青春でしたね!

90年代に入ると、
ロード・ウォリアーズもいよいよニューヨークからお声がかかります。


ナスティボーイズを破ってタッグ王者になるのにそんなに時間はかかりませんでした。

世界最高のタッグは今やヤンキー2丁拳銃ですが、
それを知るまではロード・ウォリアーズにまさるタッグチームは俺の中でおりませんでした。


ニューヨークでは、
アルティメット・ウォリアーがいたので…

ウォリアーズを名乗らず?名乗れず?にリージョン・オブ・ドゥームとして上がっておりました。

でもニューヨークの頃のウォリアーズは…
俺の中で、かつての暴走戦士っぽくなくなってしまい、少し寂しかった記憶もあります。

楽しいプロモとかやらされる事もありましたし。


でも、SWSの東京ドームとか横浜アリーナにウォリアーズが来た時には喜んで見に行きましたけども(笑)


そして、
悲劇が始まりつつありました。

ロード・ウォリアー・ホークが、酒とドラ○グに飲み込まれてしまったのです。

悪い仲間とつるむようになり、アニマルとの距離も出来てしまったと。

そしてアニマルがケガで長期欠場中に、
ホークは薬物問題、ビンスとの不仲などによりWWFを退団してしまう。


そしてホークは、主戦場を日本に求め、
パワーウォリアーことケンスキーとヘルレイザースを結成し、新日本プロレスのタッグ戦線で活躍するのです。

これにはさすがのアニマルも激怒だったそうです。
ホークに裏切られた気持ちでいっぱいだったと語っておりました。

当時はそんな事情は俺は知らなくて、後で知りました。

でも、数年後にアニマル&ホーク&パワーで試合してたし、和解したのでしょうかね。


日本でのウォリアーズと言えば、
アニメ北斗の拳2でもハーン兄弟として、そっくりなキャラが登場しましたね!

とにかくウォリアーズを真似るレスラーやキャラクターが続出しました。

そして、97年にはWWFに復帰するのだが、
ホークの問題は解決していなかったそうです。

アルコール、薬物問題、ストーリーの中でも酔いどれ親父みたいな扱いで、コミカルで変なキャラクターみたいな扱いになってしまったことも…

肉体も衰え、こんなホークは正直見たくなかったですね…

あの頃の研ぎ澄まされたホークはもういなかったのです…

でも、ホークはこの後、プロレスから離れ、クリスチャンとなり、家族のためにアルコールと薬物を断ち、生活を改善したそうです。

これは嬉しかったです。

2003年にはニューヨークのリングに帰ってきてくれて試合も出来ました。


しかし…
その後すぐにホークは自宅で心臓麻痺で亡くなってしまいます。

色々とうまく行き始めていた矢先の訃報でした。

46歳という早すぎる死でした。

世界最高のタッグチーム。
アニマルとホークのロード・ウォリアーズ。

俺がプロレスバカになるきっかけとなったタッグチームなのでした。


全日本プロレスの頃のウォリアーズの試合を見たいですね…


それでは、
頑張って行きましょう!


♯OUTTA NOWHERE!!