東京都/練馬区「桜台駅」界隈の無人化見聞録-15から更に先へ進むと、この無人の建物があった。

静かな住宅地の細い路地の奥に、この建物があった。雨戸はどれもトタンかブリキ製で、簾は酷く変色していた。

また、細い庭木と思われるものが、何故かひょろひょろと伸び、窓に設えられた鉄柵の一部を巻き込んで成長していた。「親はいなくても子は育つ」なのだろうか。

 

「路地奥の民家は無人化しやすい」

これは私の明らかに偏った見方なのだが、こうした場所からいろいろな理由でサヨウナラが出来たと、そこの住人だった人はどんな気分になるのだろうか。見当がつかない。

誰でも、自分の住処が「最高の家」とは思っていなくても、「三途の川の向う」とは思っていない。

私は「知らないこと」が、人生最高の幸せだと思っている。知ってどうなることばかりで、この社会は出来ているとは思わないが、知らぬが仏は真実の一つだろう。だとすれば、「知り過ぎた人間」と云うのは、どうなのだろうか。

そうした意味からすると、聖徳太子なんて、最もダメな人間の部類に入る。しかしこれもまたどうなのだろうか。

 

しかし、ここを立ち去った人がいるとすると、それは新しい社会への旅立ちになったのか、それとも別のことが待ち受けていたのだろうか。

撮影日:令和6年5月3日