東京都/練馬区「桜台駅」界隈の無人化見聞録-11から更に先へ進むと、この無人の古アパがあった。

「古アパがあった」と書いたが、それはこの無人化見聞録を始めていなければ、私自身の体験からは決して「古アパ」ではない。確かに新しくはないが、古くも無く、「ちょうどいい感じ」である。既におばさん化しつつあるタレントのローラみたいな言い方になるが、私の「ちょうどいい感じ」は何事においてもいつもやや長めなのだ。

 

「古アパ」生活は嫌な面も多々あったが、唯一良かったのは、いつも「ほっておかれた」ことだ。

「ほっておかれる」ことに拒否感のある人も多いかもしれないが、私はこの感覚は子供の頃から深く馴染んでおり、特段嫌では無く、こうしたことがことのほか心地よく思えるのだ。別の言い方をすれば、こんな古アパで干渉され過ぎはあり得ない。みんな独りぼっちでいいのだ。

 

こうした生活に耐えられなければ、出て行けばいいし、その逆であれば安住もあり得るかもしれない。でも今更考えると、私はこうした場所で長い間生活をし過ぎた感が無くも無い。貧しかった一因もあるが、その実感に乏しかったの要因だろう。

私が唯一、自分の欠点で自覚しているのは、何事も「続いてほしい・続くもの」と云う超保守感覚かもしれない。

そんなこと、世の荒波に少しでも揉まれれば、誰でも気づくはずなのに、それが理解出来ない。知らぬが仏なのか、地獄への三度傘だったのだろうか。

 

前にも書いた記憶があるが、「古アパ」には妙なシンパシーが今でもある。たぶんずっとあり続けるのだろう。

古アパに住む人々では無く、あの妙にかび臭い、空気の流れの悪そうなあの感覚が、私の脳裏に深くこびり付いているのかもしれない。

撮影日:令和6年5月3日