東京練馬区「武蔵関駅」界隈の廃屋群-18から更に先へ進むと、この無人の建物があった。

小窓の網戸が破れている以外に特徴的なことは何一つ見当たらない。

かなり大雑把な云い方をすると、それが現代の「無人化民家」の最大の特徴の一つなのかもしれない、

それは万人が意図してのことなのか、それとも何か時代的背景があるのかは、私のようなボンクラには分からない。ただ一つ言えることは、敢えて他人様にこうした状況を分かってほしくないと云う心持がどうしても見え隠れする。

それは「去る」と云う後ろめたさなのか、それとも計り知れない「後悔」のようなものがそうさせるのかどうかは、よく分からない。或いは何も手に付かない状況に追いやられていたのかもしれない。様々な要因があるだろう。そしてそれにはその時代特有の背景もありそうだ。政府や自治体もこれから本格的にいろいろの対応策を繰り出してくるだろう。しかし私はそうしたことには何の興味もなければ、希望も持っていない。

 

誰が何と云っても、自分のことは自分で何とかしないといけない。それが嫌なら、自分の家など持たないほうがいい。

だけど、ボロ賃貸住まいで一生の大半を過ごしてきた身としては、何というか、「もう少し身長がほしい」ではなくて、もう少し真面なアパート生活をしてきたかっと、云うあたり微かな本音なのかもしれない。

撮影日:令和5年5月20日