東京都墨田区「鐘ヶ淵駅」界隈の廃屋群-19から鐘ヶ淵駅近くに戻って来て見つけたのが、この廃屋。

元はお米屋さんのようだ。私のような「旧人類」はお米屋さんについてはいろいろ思い出したり、感じたりすることが多い。特に第一次ベビーブーム世代は子だくさん世代でもあるので、その頃はまだ家に米穀通帳があった。既にその役割は終わっていたが、「つけ」でお米を買うお店は、どこの家もほぼだいたい決まっていたが、それでも米が足りなくなると、現金をぎりぎり持たされて、別のあんまり利用しないお米屋に私がお使いに行かされる。それが何だかいつもこっばずかしい気分だったことを未だに思い出すことがある。私の母親は貧しかったにも関わらず、麦を食べさせることは一度もなかった。おかずが漬物と味噌汁だけでもご飯はお米で、それだけは頑として譲らなかった。そう言う母親だった。

 

ご飯を食べれば、出すものが出る。汲み取り式便所はいつも満杯で、定期に汲み取りに来る作業員に小銭を渡して、余分に汲み取ってもらうことをしていた。そのことを後年、やっぱり貧しかった友人に話すと、彼の家も母親が「そうしていた」と涙を流して話し始めた。みんなあの当時はぎりぎりの生活をしていたように思う。お米屋さんはどうだったのだろうか。最後にアップした写真はこの廃屋の便所の下に設置されていたマンホールの蓋である。あの当時は、バキュームで吸い取っていた。

 

後年、地方公務員のとある人に聞いた話によると、そうした職員たちは、勤めている自治体から割と遠くに離れた場所に家を建てる傾向があったと言う。自分の子どもたちが「便所屋の倅」とか「うんこ屋の息子」と呼ばれるのを恐れてのことだったと教えてくれた。私たちはそんな時代を知ってか知らずか、過ごしてきたのであります。

 

今、みんなはお米をどこで買うのだろうか。お米屋さんで買う人々と、スーパーなどで安売りを買う人では、都心部ではどちらが多いのだろうか。どちらが多くても、お米をつけで買う人々はもうそんな多くないように思う。

 

そう言えば、私の友人が以前、米を買うたびに「その中に虫が這っている」とぼやいていたのを思い出す。だったら「他に替えればいいじゃない」と言ったことがあるが、その後はどうなったのかは知らない。しかしそんな昔の話ではない。

お米にはもっともっといろんなことを感じている人々が多いのではないだろうか。

 

小さな商店街にも必ずあったお米屋さんもかなり減った。カメラ屋も魚屋も家具や布団屋もずいぶんと減った。しかし「旧人類」の私にとって、それが新しい時代だとは到底思えない。

撮影日:平成30年8月15日