武蔵五日市駅から桧原村方面界隈の廃屋群-7からその辺りを歩いていると、この廃屋があった。

台所に思われる場所の窓に取り付けられている摺りガラスを通して、台所で使う生活用品がそのままになっているのが分かる。それは同じと思われる玄関扉の摺りガラスを通しても日用雑貨が置かれているのが垣間見れる。全てを置き去りにして、この我が家を出て行ったとは思えないが、たぶん必要最低限のものだけを持って出て行ったのかもしれない。

私たちの日常生活にとって「最低限のもの」とはいったい何なのだろうか。鍋釜が無いと生活には苦労するが、それが無いと生活に絶対困るというものでもない。ならば下着類だろうか。今では百均に行けば、そうしたものはほぼ何でも揃う。ならば預金通帳や保険証、そして保険証書や年金手帳だろうか。確かにそうだろうが、我が家を捨てる人の通帳類に然程の残金があるとも思えない。メガネなんかはその一つかもしれないし、入れ歯だって無いと困る。靴も無いと困るが、別段いっぱい持ち出す必要もない。災害じゃないので懐中電灯やラジオも必要ない。ましてお茶碗や箸はとりあえずいらない。そういろいろ考えると、「最低限必要なもの」など殆どないのに気づく。それなのに実生活ではいろんなものを山のように持っている。私は家庭用の手動カキ氷器を2つも持っているが、この猛暑の中、まだ一度も使っていない。そう私の場合、必要と思っているものの大多数は思い込みが原因なのだろう。

いつだったか、弟と話しているとき、「一年間使わないものは、結局その後も使わない」と言う結論に達した。それでもその弟は定年退職記念として、所謂「高級外車」を買った。それには去年大病したことが原因しているようだ、だったら他に買うものがあったろうにとは思うが、それは本人の勝手だろうし、それなりの算段なのだろう。

 

「最低限のもの」は、その持ち出す先によってもいろいろな事柄が変わってくると思われる。しかし「我が家を捨てる」と言う、大きな決断をしたとき、本当は持ち出すものを考える人々は少ないのかもしれない。それより、もう「物や、物事に頼った」生き方から、どう自分たちを考え直していくかが、より大切になって行く気がする。しかしそれも尻に火が付いたように慌てふためいているときに考えることなど、中々出来やしない。

 

「もうこのパンツ、何日はいているのだろうか」と考えられる頃になって、人はやっと少しだけ冷静になれるのかもしれない。

ここの元住人たちは、それぞれのパンツのことから、次の事柄、そして更に次のことへ、そしてより大変な今を何処で過ごしているかと思うと、「頑張ろう」の一言ぐらい、私だってかけたくなる。

撮影日:平成30年6月30日