ひこさん・柿ピー・児童公園について(6) | 三菱ジープの断酒日記

三菱ジープの断酒日記

千葉県柏市在住、2021年7月3日になれば70歳です。中国在住の日本語教師だったのは昔。他のアルバイトも昔。騒々しい人生で家族に心配と迷惑を掛けてきましたが、やっと落ち着き……と思うと、また新しい「迷惑」が……。

 次回、帰省するその日にちが確定した時、ひこさんへの電話で、勇気をもって言ってみました。

 ひこさんが、常勤の取締役ではなくなったと確認した上で、「昼間っから、柿ピーを手の平に載せて、児童公園のベンチに座って、スーパーで買ってきた発泡酒かビールの五〇〇ミリ缶を飲みながら話す、ということはできませんかね?」

 冗談だと思ったのでしょう、ひこさんは朗らかに笑ったあと、「そりゃまたなんで」。

 どんなにひこさんが心やすくつきあっている小学校時代の同級生でも、君の案内してくれるお店は料金ばかり高くてさっぱり美味しくない、煮物は醤油辛いしそもそもその醤油の熟成が調理場でちゃんと検証された経過がわからないし、刺身はカドが寝てるし二人とも四捨五入すれば七〇才だとわかっているのに強肴は硬いの出すし揚げ物は一度他の個室に間違って持っていったんじゃないかと思われるほど冷めてるしそれをカバーするためか液(つゆ、です)が過剰に熱いし……などと言えるわけがありません。それに、どんな作品でも、褒めるよりけなす方が楽で、それは美術工芸作品でも絵画でも映画でも小説でもみんなそうで、だからこそ何かへの感想を述べる際に悪口から入っちゃいけないと思っている小童なのですから、相手が仮にひこさんじゃなくても、口に出すことはできないどころか「匂わす」「言外に含ませる」のも……仮に「うっかり」であっても……,破滅的な間違いです。

 私は一生懸命言いました、いやぁあの、いつも案内してくれるような高級でしゃれたお店でできる会話と、柿ピー肴に公園のベンチでできる会話と、そりゃ別々なんじゃないかと思って。

 ひこさんは二秒か三秒、受話器を握ったまま沈黙しました、そしておもむろに、「なるほど泉仙とか嵐山錦とかでは、のどかな『思い出話』はしにくいかもしれんなぁ」。

 私はほっと安心し、そうそう、それにお金も毎回、新幹線代とギリギリの予算で来てるし、と嘘をつきました。その嘘にひこさんが気づいたかどうかはわかりません、話の決着は、じゃ公園のベンチと高台寺菊乃井と、その中間のお店をとっておくから、ということでした。

 当日。なるほど、ひこさんにしては珍しく、居酒屋さんでした。なんでももともとは麺類を提供する観光客向けのお店だったようで、なるほどメニューはこなれたようでこなれてないようで、壁を見ながら二人で愉快な感想を述べ合いました。ガラスの小鉢にモズクを入れ、へぎ柚子を浮かべて四〇〇円とか、キュウリの小口切りと固く煮た穴子とを合わせて六五〇円とか、非常に安直でそしてたいそう美味しいのです。私の箸の運びを見ながら、いつもより嬉しそうや、とひこさん。私はずるずると絹豆腐と納豆の和え物をすすりながら、いつもと違って緊張していませんから、と言いました。で、実は、と、ひこさん。

 なんですか? と私はひこさんのほうへ耳を寄せました。彼は声を珍しくひそめて、「実はこの店選んだのは大将の雰囲気なんや」。

 なるほど、と私はうなずきました。大将の醸し出すオーラについては、私も気づいていました。耳にはピアス用の穴が軟骨部分にまで及んで五つか七つ、空いています。もちろんその全ての穴にピアスが収まっています。更に声を小さくして、「やーさんみたいやろ?」とひこさん。「そう言って言えないこともありませんね」、と私。

 飲むと、普段は言うまいと気をつけていても何か微妙なことを言ってしまう、そういう問題点が私にはあります。たとえば例の「なかまさんの胸、凝視事件」。あの時私の依頼に応じてひこさんは瞬時に謝罪を選択してくれたのですが、それはなかまさんの、ひこさんへの恋情を見抜いてのことだったのか。そもそもなかまさんの「人の胸ばっかり見んとってよ」は、周囲に特に女子連中に、ひこさんに見つめられたことを自慢したかったゆえだという風に小童は感じ取ったのだが、その点においてひこさんと小童とは一致しているのか、どうか。……いやいや、いやいや、下らないことだということは百も承知でした。そんな「下らない」ことを、二条城を窓外に鑑賞しながらごはんをいただく「松粂」さんで、ハモ落としを食べながらしゃべれるわけがありません。沖縄のモズクでないといけないのです。餃子一皿五五〇円でないといけないのです。私はいつもの倍、飲んでしまい、ひこさんに後を支えられながら急な階段を「やっと」昇りました。当夜のお店は地下やや深い所にあったのです。ちなみにひこさんは体力という点では一流のものを持っており、今なおサッカーチームを「自分で」主宰し、監督し、必要とあれば九〇分を走りきる、という怪物なのでした。「ちょっとそこまで自転車漕いでくる」と奥さんに言って出かけ、気づいたら奈良の美術館前やった、という話をして私を笑わせた時、彼はもう七〇才に「かなり」近づいていました。体力には何の謎もありませんが、サッカーチームを……たとえ素人ばかりの草サッカーであったにしても……主宰する資金的裏付けは、いくら考えてもわかりません。練習場を借り、試合会場を借り、レフェリーを雇い……という煩瑣な作業のどこにも、応分の資金が要求されていると思います。

 余分な話はさておき、楽しい、得がたい夜でした。私はいつものように帰省の日に姉を見舞い、その夜か次の夜にひこさんと会い、出立の前の日にもう一度姉を見舞う、という定型化された帰省スタイルをとっていたのですが、どういうわけか次の帰省の時には食事会場はもうかつての「格式」に戻っていました。そして、柿ピーと缶ビールを手にして児童公園のベンチで旧話に花を咲かせるという夢の宴は、実現することがありませんでした。

 私の我が儘かひこさんの不注意か、それはもう「起こってしまった」、なかまさん胸事件よりはるかに深刻な「わるいこと」は、もう、起こってしまったことなのでした。私の方から「二度と連絡などとるまい」という決意ないしあきらめのようなものが、意思疎通の不備が、露呈する、そんな事件があったのです。ひこさんがそれに気づいたかどうか、今のところわかりません。今わからないのだから死ぬまでわかりません。私は膵臓に癌病巣を抱える人間です。手術で病巣を切除したら半年で再発し、それから一ヶ月で肺への転移を告げられてしまった、先の見えている病人です。「死ぬまで」と言ったって、それは明日かもわかりません、今夜かもしれないのです。それなのに、あるいは「それだからこそ」ひこさんの「不注意」ならびにその不注意を引き出してしまった自分の複数の要因に基づく至らなさが、残念でならない、という前に、矛盾しているかもしれないのですが、「死ぬまでこだわらないといけないこと」なのでした。

 

 この詳細については、明日(あるいは明後日)の報告となります。