後編 

 

家に帰っても、半ば両親から村八分状態だったので、 

家ではなく京都の下宿先へと戻った。 

そのままヒマラヤ行きの準備を始める事となった。 

例えば徳川家康が天下をとるまでに、 

生きるか死ぬかの要となった戦があったと聞く。 

命拾いしたという時があって、 そこで死んでたら天下はとれてない。 

私にとっては、この単独登攀が、 その要となる山行であったと言える。 

 

確かに、その後の2度の7000mの初登頂、と、 

東壁初登攀も、技術的にギリギリの所もあった。 

春の初登頂は、頂上直下の最後の壁が傾斜は60度くらいだったが、

  カチンカチンのブルーアイスで、登ったはいいが下る自信が無かった。

高度障害で、微熱状態だったのもあるが、 

頂上で、このままここにいる事は出来ない物だろうか、と、 本気で考えていた。

 が、くだらなければならないという冷静な心は失ってはいなかった。

直下の60度の所は、滑落せずクライミングダウンで降りた。 

本当にトタン屋根の上をアイゼンで登ったり下ったりしてる感覚だった。 

アイゼンの歯もピッケルの先も、0.1mmも入らなかった。 

フリクションで上り下りしていた。 

その下は6㎜のフィックスかなり下まで固定されていたのだが、 

ユマールで確保しながら下ったのだが、

5-6回、私は足を滑らせて、全体重がこの6mmにかかって止まった。 

止まらなけれな1500メートル以上の滑り台を滑り落ちていたことになる。 

 

又、秋の2回目の7000mは、アルパインスタイルで、壁を直登したのだが、 

稜線で、テントまで4つんばいで這って戻ったのを覚えている。 

アタックキャンプが5000m弱の所にあって、重たい頭で登りだしたのだが、 

5500m位で、重たい感覚がスーッと消えて行ったのを覚えている。 

しかし7000mの稜線では、酸素ボンベなしなので、

  鉄鋼場にいるような耳鳴りがして、 

稜線伝いでも被ってるような壁を登らないといけない所もあって、

 腕力が必要だった。 

下界で可能な限り上半身を鍛えていて本当に良かったとつくづく思った。 

 

壁を下るのに、雪崩が起きる前に素早く降りる必要があった。

 途中、登ったルートとは違って、 

被り気味の氷壁を数回の懸垂下降で降りる事を強いられた。 

それが、あのカチンカチンのブルーアイスの壁の懸垂下降で、

  アイゼンの出っ歯だけで、長時間、確保しなければならず、

  技術的に限界に近かった。 

足元がスリップしない保証が全くない中での 

連続懸垂下降であったし連続確保であった。 

ではあったが、無事に約半年の遠征も終わり、 

春も秋も京都新聞を中心に 

全国のテレビ新聞が大騒ぎしている日本に戻る事となったのだ。 

その間に、静岡市内でのガスの大爆発事故などもあったようだ。 

OBが大騒ぎしてるのもわかってたので、 

私は、京都に戻らずに、伊豆の実家に戻り、

 静岡市の県の岳連本部の登山用品店で仕事をさせてもらう事となった。

富士山での県主催の雪上訓練のインストラクターや、 

遭難救助隊の先頭をやったり、

店員もやったり、 結構忙しかったが、

同僚の死をきっかけに、 

今迄の様な登山から完全に足を洗って、

 社会人として、1から出直す覚悟を決めたのであった。

この話は、一応ここで終わります。