私が生涯の中で唯一【ゾーン】に入った時

前編

私は3歳からピアノを弾き出した。学校中でも当時男では1人だった。
母親は私を国立の音楽大学に行かせるつもりだった。
しかし、曲をパッと聞いて即座にハ長調の音階では歌えたが、
例えばヘ長調でとかト長調でとかでは歌えなかった。
その才能の限界に気づいてるのは私だけだったので、
強引に音楽大学には行きたくないと叫びまくってスポーツマンの道を歩みだす。

ジャンプ力があって脚が早かったので、
中学高校はバスケットボールに夢中になった。
169㎝の私は305㎝のリングに中指の第1関節まで届く状態であった。
しかし、194㎝の富士市の高校の選手と
マッチアップをさせられて完敗をきしたのをきっかけに、
徐々にロッククライミングに興味が出るようになった。

それも理由がある。身長がないので外からの
シュートが入らなければ何の役にも立たないと思い、
1日500本を目標にシュート練習をしたのだが、
進学校だったので普通では達成できない。
そこで1日4回ある10分休みに
30本づつでもいいから練習をやろうと思ったのだが、
職員室に鍵をとりに行ってると時間が足りなかったので、
いつも開いてる3階の隣の卓球部室から窓伝いに
バスケ部室に入って体育館に行って練習したのだ。

1日往復で、軒に手をかけて窓伝いに往復で8回毎日やってるうちに
とび職の様に面白くもなった。
偶然それを見た同じクラスの奴が『お前勇敢だなあ』と言ったので、
俺は勇敢なんだ、と思って、壁を登る山登りに興味を抱いた、
という実にばかげた単純な理由であった。

そして大学で山岳部に入る。
しかし使う筋肉が全然違う事もあって、初めは一番初めにバテて、
蹴とばされ怒鳴られながらの山行が2回続いた。
しかしそこから人知れずのトレーニングを重ね、
腕立て伏せは150回できるようになり、
4回生の時についにマラソンは1位になり、
懸垂も20回できるようになり、
ついに部のご法度を破って、
前穂高屏風岩東壁蒼白ハング小倉ルートという大ハングル―トを
単独で登ってしまった。
実はヒマラヤに春秋2回挑戦する3人で挑む遠征のメンバーだったので、
自分への何かけじめみたいのが欲しかったというのもあった。

4回生の夏、この屏風岩の雲稜ルートを3人で登ったのだが、
その時途中から左に分かれる小倉ルートを目の前で見ていた。
真新しいボルト連打のピッチから始まっていた。
その時から、絶対に行きたいと思ってたのだが、誘ったパートナーから断られ、
単独で行く事を決意した。
どうやって登るかオリジナルの方法を考えた。

一度実家に戻り、単独で行くためのザイルやシュリンゲの準備も整い、
両親の元を旅立った。
今思うと、この方法でも仮にハーケンが抜けて滑落した場合、
下まで落ちて死んだだろうと思うが、
当時はやはり若かったのだろう、
まず落ちなければいい、どうせ20m落ちようが800m落ちようが結果は同じだ、
と言うのが私の結論だった。

上高地よりかなり手前でバスを降りて、そこで1晩過ごした。
プレッシャーとの戦いであった。
サザンオールスターズの愛しのエミリーがラジオからしきりにかかっていた。
次の日、横尾まで行き、少し洞窟みたいになってる所で1晩過ごす。

いよいよ、登りに行く当日になった。必要なものだけザックに入れて、
残りはそこにデポして、
荷物に向かって『行ってきます。必ず戻ります。』と
手を合わせて大きな声で言った。
出発。ちょっとしたら、登攀を終えた若い3人組とすれ違った。
そのまま、とりつきに進んで行った。
岩稜を暫く登って行って、いよいよとりつきに来た。
この前1度登った所だ。普通にコツコツと登りだす。
雲稜ルートと小倉ルートの分岐に狭いテラスがあって、
そこのテラスまで来た。そこで1泊した。
朝起きて、朝食何食べたか覚えてないが、
どうせ全部登り終えるまで飲まず食わずだ、と思い、
最低限の水分と小さなようかん1つだけ持って
スタートしたのは覚えている。
続きは【中編】【後編】と続きます。

このルートは、ずっと90度以上被っていて、
核心部は水平に7m天井の様に張り出している。
この東壁蒼白ハング帯の中で、
最も大きな庇上のハングを乗越す直登ルートである。